Backstage hallucination

     - Crazy Little Thing Called Love -







俺は今でも、あれは悪夢みたいなものじゃないかと思ってる。

いや、悪夢という表現は、ちょっと違うかもしれない。

なんだろう・・・。

闇の堕天使が気まぐれに俺にちらりと覗かせた、禁断の淫魔。

―――そうとしか、説明しようがない。





☆ ☆ ☆





俺の名前は、アンリ・ラウール・シャルトル。26歳。

兄さんもアンリという名前なので、ラウールと呼ばれてる。

職業、ボディガード。

ジャンダルメリ(警察)の訓練学校をドロップアウトしてからこっち、ずっとそれで食ってる。





今の世の中、いろいろ物騒だろう?

お貴族さまも、芸能人も、政治家も、果てはスポーツ選手も。

顔が知られると、誘拐だのストーカーだの、おかしな犯罪に遭いやすい。

だからちょっとお金に余裕ができると、真っ先にボディーガードを雇うんだ。

金でセキュリティを買う時代になった、ってことだろう。

おかげで、俺は一度も仕事に困ったことがない。

たしかに、命の危険性だってある仕事だけど、実際、そんな目に合う奴は稀だ。

たいていは、芸能人のショッピングにつきあったり、

金持ちのバカ息子の通学の送り迎えをしたり。

たまに、召使でもないのにあれこれ指図されるのは、気に入らないが。

全体としては、悪くない仕事だと思ってる。





先日、俺は新しい仕事の面接に行った。

ヨージ・カトーって日本人が、解雇したボディガードの後任を探してるって話だった。

その名前には、聞き覚えがあった。





パリ在住の天才ヴァイオリニスト。

30歳になったかどうかっていう若い奴だが、とんでもなく人気があるらしい。

かつて神童って呼ばれてて、今じゃクラシック音楽界の寵児、なんだそうだ。

東洋人とは思えないルックスで、女ったらし。

何年か前まで、ヨーロッパのゴシップ写真雑誌の常連だった。

やれ、ハリウッド女優とつきあってるだの、

エーゲ海のクルーズ船でどっかの国の王女さまと一緒にいるところを盗撮されただの。

ま、富と名声をかさに派手に遊んでるって印象だったね。

・・・同世代だけに腹が立つよな、そういうの。

もっとも最近は、そういう派手な噂を聞かなくなってた。

とはいえ、さ。

俺の経験で言うと。

そういう享楽的なタイプって、案外ボディガードにも気前がいいんだ。

おいしい仕事かもしれない、と思ったね。

だから、俺はけっこう気合を入れて、面接に行ったんだ。





書類審査が通ってる面接ってのは、第一印象がすべてだ。

要するに基本的な条件はクリアしてるわけだから、

あとは、気が合うかどうかだと、俺は思ってる。

ボディガードって、本当に私生活のいちばんプライベートな部分にまで入り込むからね。

それを許せる相手かどうか、見極めるのが面接なんだ。

そうは言っても、さ。

ヨージくらい有名人になると、どうせエージェントや弁護士がずらりと揃ってて、

そいつらが面接をするんだろうと思ってた。

だから、彼の自宅で、本人が出迎えたときは驚いたよ。





実際に会ったヨージは、俺のイメージとはまったく違ってた。

背が高くて、鍛え上げたいい体格。

・・・どう言ったらいいかな。

ひとことで言えば、実にいい奴だった。

一流の音楽家だから、ツンとお高くとまった芸術家タイプかと思ってたけど、

拍子抜けしたね。

にっこり笑うと太陽みたいで、何て言うか―――気負ったところのない、

素直で明るい奴に見えた。





しばらく雑談をした後、ふいにヨージが真顔になった。

「雇用の際に性癖を聞くのは差別だってわかってるけど。

でもこれだけは、聞いておきたいから」

って言い出したのが、彼の恋人の話だった。

キョースケ・イワキ。

年上の男性で、今はまだ日本に住んでいるけど、

近いうちにパリに呼び寄せるつもりだって。

その彼に、何かあっては困るからって。

真剣だったよ、ヨージ。

恋人を守るためなら、なんでもする覚悟だって。

そいつにどれだけ惚れてるのか、すぐわかったね。





・・・俺はさ、もちろん知ってた。

新しいご主人になるかもしれない人間のリサーチくらい、するからね。

だからヨージ・カトーに、同性のパートナーがいるってことは知ってた。

業界じゃ、有名な話らしい。

あれだけ派手に女遊びしといてゲイなのかって、ま、思ったね。

どういう相手なのか、顔も知らなかったけど。

・・・でも所詮は、36歳のおっさんだぜ?

俺より10歳も年上で、女役・・・なんだよな、そいつ。

人の趣味にどうこう言うつもりは、ないけど。

どう考えても、守備範囲外。





俺はだから、安心させるように頷いたよ。

「俺はゲイじゃないし、仮にそうだとしても、

雇用者の身内に手を出すようなプロとしてあるまじき態度は取らない」

ってね。

そのときのヨージの顔は、今でも忘れられない。

自信満々に断言した俺をじっと見つめて、満足したように笑ったけど。

心の底では俺を信用してない、そんな目つきだった。

いや、信用してないわけじゃなくて・・・。

そう、ため息をついて、俺の言葉を信じるしかないから、信じてみよう、って感じだった。

どうせそれ以上の確約は望めないんだから、ってね。

要するに、愛人にのぼせた男の杞憂だろ、それ。

―――そのときの俺は、そう思ったね。





☆ ☆ ☆





だけど。

ヨージの『杞憂』が取り越し苦労じゃないと気づくのに、大して時間はかからなかった。

―――キョースケは実際、とんでもない奴だった。





どう説明したら、いいんだろう?

すっきりした美貌で、いつもキモノ姿。

大人しいわけじゃないが、控えめで、常に旦那をたてて一歩下がってる感じだ。

穏やかな性格で、俺たちスタッフにも腰が低い。

素直っていうか、馬鹿っていうか。

ときどき驚くほど初々しい反応をして、ヨージを喜ばせる。

何しろ、もう長いこと連れ添ってるって話だけど。

いまだに、「可愛いよ」って言われて照れて俯いたりするんだ。

あんなベタな反応、今どきリセの生徒だってしないよな。





ま、それだけなら、よくある話だ。

金持ちの愛人に運よく収まって、食わせてもらってる中年ゲイ。

偏見はないけど、そういう人種に大して興味も湧かないからね。

でもキョースケは、どこか違った。

彼の頭の中には、ヨージのことしかない。

それはもう、呆れるくらい。

惚れた相手に尽くすとか、妻の責務を果たすとか、そういうレベルじゃないんだ。

文字通り、旦那のためだけに生きてる感じ。

だからって自我がないってわけじゃなくて。

何ていうか―――本当にヨージ以外は何ひとつ、要らないんだろう。





のんきなマダムの買い物につきあって、ずいぶんあっちこっち行ってるが。

ヨージの秋のスーツを新調して。

ヨージの旅行かばんを買い換えて。

ヨージの下着をひと揃い買っておいて。

ヨージの好きなラデュレのマカロンを差し入れに買って―――。

・・・馬鹿みたいだろ?

いつだって、キョースケが選ぶのは最高級品ばかり。

でも俺は、彼が自分のものを買うのを見たことがない。

遠慮してるんじゃなくて、たぶん、考えつきもしないんだろう。

ヨージさえよければ、キョースケは幸せなんだ。

あそこまで傾倒できるってのは、凄いことだよな。





そういえば。

どっかのカフェで、嫌がらせをされたことがあった。

どこにでも、ゲイに偏見のある輩はいるからね。

まして東洋人となれば、差別に拍車がかかることも少なくない。

ヨージとキョースケみたいな目立つカップルなら、

それはもう、避けて通れないことなんだと思う。

ひどい侮蔑の言葉を投げつけられて、一瞬、キョースケは呆然としたけど。

ゆらりと立ち上がって、まっすぐに言い放ったんだ。

「俺のことをどう言おうと勝手だが、香藤を侮辱するのは許さない」

・・・紙みたいに蒼白な顔で、拳を握りしめて。

つたないフランス語で、それでも毅然とね。

決して声を荒げたわけじゃ、ないんだけど。

キョースケの迫力に、カフェの他の客があっけにとられてたな。

―――いつもはニコニコしてるだけの、可愛こちゃんなんだけど。

ああいう顔もできるんだなあ、って思ったよ。

このときだけじゃ、ないけど。

キョースケは姉さん女房の貫禄でヨージを支えて、ちゃんと守ってる。

・・・できたオンナだよ、実際。





それだけでも、そういう趣味の人間にはたまらないだろうが。

キョースケの場合、そのうえ特別な「何か」があった。

―――色香、というか。

無意識に男をそそる艶、と言ってもいいかもしれない。

とにかく、キョースケは強烈な魅力を放っていた。

匂いたつような官能的なフェロモンを全身から発散させているくせに、

本人はそのことにまったく気づいていないんだ。

キョースケに、女々しいところはいっさいないが。

でも彼の醸す色香は、明らかに、本来男性の持つものじゃない―――。

ヨージにめちゃめちゃに愛されて、開発されて、磨き上げられて、ああなったんだろうな。

・・・とにかく、そのせいで。

ゲイもストレートも、彼の前では無力だった。

キョースケがいい歳の男性だという事実でさえ、まったく歯止めにならないほど。

俺は悪化する一方の目眩とともに、面接のときのヨージの複雑な表情を理解した。

した、つもりだった。





☆ ☆ ☆





寝苦しい夏のパリの夜。

俺は、ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。

俺と、同僚で先輩格のチャーリーの二人のボディガードは、

常にどちらかが泊り込むことになっている。

その夜は俺が当番で、ヨージの豪華なアパルトマンに用意された一室で床に就いていた。





「あふ・・・ああぁ・・・んんっ・・・か、かとぉ・・・っ」

―――まただ。

夜の静寂を引き裂くような、キョースケの甘い声。

低いかすれ声が、ときどき苦しそうにくぐもる。

どう聞いても、男のものなのだが。

なぜかたちの悪いことに、この声は容赦なく下半身を直撃する。

これが聞こえ始めると、もう、どうしようもない。

俺はもぞもぞとシーツの下にもぐって、耳を塞いだ。

「んふっ・・・はっ、やぁ・・・っ!」

マスターベッドルームは長い廊下のいちばん奥なのだが、

キョースケの声は、はっきり言ってでかい。

よく響くつややかなバリトンで、一晩中、喘ぐんだ。

・・・たまったもんじゃない。

尽きることを知らないヨージのスタミナにも、

拒みもせずにそれに最後までつき合うキョースケにも、俺は辟易していた。

―――そのうち、いやでも慣れるさ。

チャーリーはそう言って笑ったけど。

それにはまだ、ちょっと時間がかかりそうだった。





俺がそれでも、ようやくうつらうつらし始めたとき。

ベッドサイドの携帯電話が鳴り始めた。

反射的にワンコールで受話して時計を見ると、午前2時。

電話は、トーキョーに出張中のヨージのマネージャー、カネコからだった。

この冬日本で発売を予定しているヨージのアルバム。

その契約交渉で、トラブルがあるという。

『真夜中にすまないね、ラウール。でもこれは、今日中に片づけないとまずいんだ。

・・・香藤さん、まだ寝てないでしょ?』

電話の向こうの含み笑いに、俺は苦笑を返した。

「ああ。相変わらず、元気なもんだよ」

『秘書の真似事をさせて悪いけど。頃合いがよければ、

この電話を香藤さんに持って行ってくれないかな?』

「それは、構わないが・・・」

途切れ途切れのキョースケの悲鳴を聞きながら、俺はため息をついた。

「・・・タイミングが、難しいな」

『あはは!』

カネコが珍しく、明るく笑った。

『同情するよ、ラウール。・・・あのね。岩城さんがすすり泣いてなかったら、

まだ大丈夫だと思うから』

くすくすとそう教えられて、俺は眉をしかめた。

「大丈夫って・・・セックスの最中だぞ?」

『それは、想像がつくけどね。ラウール、嫌な仕事を頼んで悪いけど、

君に頼むしかないんだ。

香藤さん、岩城さんと一緒のときは電話線引っこ抜いちゃうからさ』

「・・・わかった」

俺はしぶしぶ頷いた。

甘い嬌声が、風に乗って聞こえてくる―――。

・・・すすり泣きじゃ、ないよな?

カネコの言葉を信じて、俺は廊下に出た。





白い扉の前で、俺はわざとらしく咳払いをした。

・・・もっとも、キョースケの喘ぎ声にかき消されて、

このアパルトマンの主人には聞こえなかったらしい。

もう一度、咳払い。

ベッドのスプリングが軋む音が、やけに大きく聞こえた。

俺は観念して、少々乱暴にドアをノックした。

『・・・ひぃ・・・っ』

途端に、キョースケの喉が鳴ったのがわかった。

「・・・ラウール・・・?」

息を切らしたヨージのかすれ声が、ドア越しに俺を呼んだ。

『どうしたの、こんな、夜更け・・・って今、何時・・・?』

「午前2時です。お取り込み中、申し訳ありませんが・・・カネコから、

緊急のお電話が入ってます」

カサカサと、わずかな衣擦れの音。

荒い吐息。

・・・あまりに、リアルすぎて。

俺は、妄想をたくましくしている自分に苦笑した。

『そっか。レコーディングの件かな・・・わかった。

10数えてから、入ってきて? 鍵はかかってないから』

小声の短い会話。

もっと衣擦れの音。

・・・アン、ドゥ、トロワ・・・。

俺は心の中でゆっくり20まで数えてから、ドアを開けた。





☆ ☆ ☆





最初に見えたのは、ほの白い肌だった。

灯りはすべて落され、頼りになるのは窓越しの月光だけ。

すっと一筋差した月明かりが、ちょうどピンライトのように、

キョースケの背中に当たっていた。

わずかに桜色に見える、絹のような肌。

腰が砕けたみたいに、ベッドにペタリと座り込んで。

彼は俺に―――ドアに背中を向けていた。





浴衣は肩からほとんど脱げ落ち、かろうじて、帯で下半身に巻きついているだけ。

濁ったターコイズ色の浴衣―――。

紺よりはずっと柔らかい錆びた青色に、白い百合の花が染め抜かれていた。

和装のことなんて俺は何も知らないが、こういう柄は女物なんじゃないか?

・・・まあ、キョースケのキモノはすべて、ヨージの見立てだからな。

これも、自分の女房で着せ替え人形みたいに遊ぶヨージの趣味なんだろう。





「やあ、ラウール」

白い背中のその向こうで、ベッドに横たわったままのヨージが笑いかけた。

汗に濡れた髪の毛をかきあげ、愛おしそうに、

折りたたんだキョースケの膝小僧をさすっている。

俺は軽く会釈したきり、しばらくその場を動けなかった。

ヨージの手が、エロティックな愛撫を繰り返す。

ともすると、キョースケの開いた膝の間の内腿に、

その手がするりと入って行きそうになって―――。

「岩城さん・・・大丈夫・・・?」

小さなささやきに、ようやく反応したらしく。

「・・・ん・・・」

だるそうな吐息とともに、キョースケがもぞもぞと身体を揺らした。

つややかな黒髪が、はらりとこぼれる。

キョースケの右手が緩慢に伸ばされ、ずり落ちていた襟をゆっくりと左肩にかけた。

それから今度は左手で、右袖を肩に持ち上げる。

とりあえず上半身を覆い隠したところで、ほうっと息をついて。

キョースケは、スローモーションで俺を振り返った。

「・・・!」





ほんのり上気した頬。

汗に光る、白い額。

ぷっくり膨れた、扇情的な紅い唇。

鬱陶しそうに、乱れた前髪を払いのけて―――。

潤んだ黒曜石の瞳がけぶり、俺をじっと睨みつけた。

「うわ・・・っ」

俺は思わず、全身を総毛立たせた。

猫のように光る眼の焦点は、どう見ても合っていなくて。

―――たぶん、意識して俺を睨むつもりじゃないんだろうが。

キョースケは、本能むき出しの野性の目をしていた。

セックスの最中に邪魔された苛立ちを、隠そうともせずに。

ただしどけなく身体を捩って、俺を見ていた。

たぶん俺が誰だかも、わかってないんだろう。

「ん・・・っ」

キョースケが気だるげに、喉を鳴らす。

チロリと覗いた赤い舌が、半開きの唇をゆっくり舐めた。

完全に理性を手放した状態の、キョースケ。

男でも女でもない、この世のものとすら思えない、妖艶な魔。

その凄絶な姿に、俺は息を呑んだ。





「これを・・・」

内心、うろたえながら。

俺はベッドに近づいて、ヨージに携帯電話を差し出した。

「メルシィ、ラウール」

相変わらず屈託のない笑顔で、ヨージは俺にウィンクした。

「ああ、待たせてごめん、金子さん・・・」

ヨージが片手で、なだめるようにキョースケの背中を撫でる。

「んん・・・」

キョースケは俺という侵入者から視線を外して、気持ちよさそうに眼を閉じた。

すぐ側で立ち尽くしている俺のことなんか、瞬時に忘れたのだろう。

「香藤・・・」

キョースケが甘えるように、腕を差し出す。

ヨージは小さく笑って、携帯電話を肩と耳で挟み、

自由になった手でキョースケの指先を掴んだ。

からかうように指を絡ませ、引っ張り、結婚指輪をくるりとなぞる。

もう一方の腕は、キョースケの背中に回ったまま。

「うん、ああ・・・そっか・・・」

金子と普通に会話を続けながら、女房の機嫌取りにもそつがないヨージを、

俺は呆れて見つめた。





―――ふと、思いついたように。

キョースケがヨージの手を、乱れた浴衣の袷に導いた。

その指の動きを、俺の視線も追ってしまう。

「あ・・・っ」

思わず声を出しそうになって、俺は慌てて口を噤んだ。

導く指の先には、キョースケの乳首。

薄い浴衣の上からはっきりと、固く勃っているのがわかる。

「ちょっと、岩城さんてば・・・」

のんびりとなだめるような口調で、ヨージが囁いた。

キョースケは黙って、いやいやをするように首を振った。

それから無造作に、旦那の手のひらを袷に突っ込む。

あからさまに愛撫をねだるその仕草に、ヨージが苦笑した。

ちらりと俺を見上げて、共犯者めいた笑顔を見せる。

「もう、ほんとに・・・」

嬉しそうに、ため息をつきながら。

ヨージは布地の下で、ゆっくりと指を動かし始めた。

「ふ・・・んっ」

キョースケが腰を揺らしながら、すぐに悩ましい声をあげる。

俺は目をそらすこともできずに、仰け反った彼の喉元を見ていた。





白い肌に点々と、赤い愛の印。

鎖骨から胸板にかけて、まるで花びらのように散っている。

その肌が、ヨージの愛撫を受けて、少しずつ上気して―――。

「ああ、ん・・・っ」

とろけそうに甘い嬌声が、ファルセットに響く。

ヨージの施す愛撫以外、何もわからなくなるほどぶっ飛んだキョースケ。

「・・・んん・・・っ」

吐息が鼻から抜けて、ベッドルームに満ちていく。

かすれた、低い喘ぎ声。

ヨージの腕にしがみつきながら、キョースケは感じてどうしようもないらしい乳首を、

その手に自ら擦りつけた。

浮かしかけた腰が、扇情的にうごめいて。

「あぁん・・・くっ・・・よ、洋二・・・っ」

ヨージを欲しがって、膝を割って誘いをかける。

―――キョースケは、忘我の境地にいた。

官能だけを追い求めて。

ヨージに導かれる、とびきりの高みを目指して・・・。

俺はもう、たちの悪い淫魔に遭遇してしまった気分で。

「勘弁してくれよ・・・」

天を仰いで、俺はぐっと拳を握りしめた。





☆ ☆ ☆





ヨージが爪弾く優美なワルツの音で、俺は目が覚めた。

生の演奏じゃなくて、これはCDの音だ。

キョースケが毎朝、飽きもせずに聴いているやつ。

慌てて時計を見ると、午前8時。

・・・いつもの起床時間を、一時間も過ぎている。

俺はベッドから飛び出ると、タオルを掴んでバスルームに駆け込んだ。





冷たいシャワーで脳みそに覚醒を促しながら、俺は昨夜の出来事を反芻した。

―――あれは、何だったのだろう?

セックスの快楽に溺れて、正気を失ったキョースケと。

そんな女房を嬉しそうに見せつけて、余裕の笑顔をかましたヨージと。

・・・どうなってんだ、あの夫婦は。

俺は、深いため息をついた。

どうやってあの場から去り、自室に戻ったのか、よく覚えていない。

・・・あんなのを見せつけられて、俺は平静でいられるのか?

『俺は、バリバリのヘテロだ』

『36歳のおっさんなんて、どう考えても守備範囲外だろう』

かつてそう思った日があったことを、しみじみと思い出す。

・・・知らないって、幸せだよな。

俺は無邪気だった自分を、懐かしんだ。





キッチンに続くドアを開けると、コーヒーのいい匂いがした。

広々とした空間は、眩しい太陽の光で満ちていた。

「ボンジュール、ラウール」

俺に気づいたキョースケが、にっこりと笑いかけた。

何の屈託もない、いつもの朝の挨拶。

「香藤は今、角のブーランジェリにバゲットを買いに行ってるんだ。

戻って来たら朝食にするから、そこで待っててくれ」

俺にコーヒーカップを差し出しながら、さらりとそう言う。

―――どう考えても、昨夜の、いや今朝のことを覚えているとは思えなかった。

「・・・メルシィ」

俺はあいまいに頷いて、籐の椅子に腰かけた。





馥郁としたコーヒーの香りを嗅ぎながら。

俺はぼうっと、くるくると立ち働くキョースケを観察した。

・・・昨夜あれだけ愛されたってのに、元気なものだ。

彼が着ているのは、身体にフィットする黒いTシャツと、

ちょっと腰の辺りがだぶついた洗いざらしのジーンズ。

どちらも、ヨージのものだ。

旦那の趣味でキモノを着ることの多いキョースケだが、

朝はこうやって、ごくカジュアルな洋装をしているときが多い。

今まで俺は、それは単に、朝からキモノを着付けるのが面倒だからだろう、

と思っていたのだが。

・・・後ろ姿のキョースケの耳元に残る赤い痕を見ながら、

これが理由か、と訳もなく納得した。

あのTシャツは、いったい幾つのキスマークを隠しているんだろう。

確かにキモノでは、首筋から胸元まで丸見えだから。

ふっと。

ベッドの上のキョースケのしどけない痴態が、俺の脳裡によみがえった。

―――荒い吐息。

途切れることのない、悩ましい喘ぎ声。

しなやかな指がヨージの太い腕に絡みつき、呼び込み、引き寄せる。

揺らめく腰と、ほの白い肌。

なまめかしい、どこまでもなまめかしい姿態・・・。





「どうした、ラウール?」

ふいに名前を呼ばれて、俺は飛び上がった。

「ずいぶん深刻そうな、ため息をついてたぞ?」

俺の顔を覗き込んで、キョースケは小首を傾げた。

「いや、あの・・・」

俺は焦って、コーヒーに口をつけた。

何も言わない俺にひょいと首をすくめて、キョースケが笑った。

「何でもないなら、いいけどな」

穏やかな笑顔。

俺はそっぽを向きながら、視界の隅で彼を追った。

・・・どうみても、普通なんだよな。

朝日を浴びて、キッチンに泰然と立っているキョースケは、

どこにでもいる普通の大人の男に見えた。

男と結婚していて、しかも女房役をやってるなんて、こうやって見ている限り、

想像もつかない感じだ。

確かにきれいな顔立ちだが、そんな奴はほかに幾らでもいる。

―――この男が、ベッドの上では妖艶な娼婦に化ける。

いや、ヨージの前で、というべきか。

ヨージだけを求め、ヨージだけに脚を開く。

誰よりも壮絶な色香をまとって、性愛に溺れて我を失う。

・・・愛の奇跡、ってやつか?

「とんでもねえな・・・」

俺は人知れず、ため息をついた。





☆ ☆ ☆





午前10時、チャーリーが時間きっちりに到着した。

練習に出かけるヨージをリサイタル会場に送り届ければ、俺の今日の任務は終了する。

「おい、何だか腑抜けた面をしてるぞ」

チャーリーに脇腹を小突かれて、俺は苦笑した。

「寝不足なんだ、ほっといてくれ」

俺が小声で言うと、奴はニヤリと笑ってみせた。

「お盛んだったのか。同情はするが、そろそろ慣れないと、な」

「・・・わかってるよ」

俺は憮然と答えて、玄関に向かった。





「じゃ、行って来るね」

「ああ。がんばれよ」

「うん」

「午後には、様子を見に行くから」

「うん」

甘ったるい会話と、お決まりの抱擁。

ほんのり頬を染めたキョースケの腰を抱いて、ヨージがキスをしかける。

「っん・・・」

深いくちづけに応えて、キョースケの腕がヨージの首に廻される。

いつの間にか見慣れた、朝の光景。

パリに来た当初は、カネコや俺たちの面前でキスを交わすのを嫌がっていたキョースケだが。

開き直ったのか慣れたのか、最近じゃ堂々としたものだ。

「・・・あふっ・・・」

息を切らせて、キョースケが顔を逸らせる。

「じゃ、ね?」

まなじりを染めて胸を喘がせる女房に、満足したように。

ヨージは俺のほうを向いて、出かけるよ、とウィンクした。





相変わらずのパリの渋滞―――考えごとをするには、ちょうどいい。

ブレーキを踏みながら、俺はふと思った。

これまで、夜毎のキョースケの甘い喘ぎに苦しんでいたが。

あの淫魔に遭遇してしまった今では、声だけなんて大した問題じゃない。

今夜からは、もっと楽に眠れるようになるのか。

・・・それともベッドの上の悩ましいキョースケを想像して、なおいっそう苦しむのか。

―――あれは、魔だ。

あんなものに魅入られたら、正気ではいられない。

蠱惑的だが、俺にはあんなものを相手にする覚悟はない。

そう思って、俺はしみじみ、ヨージの非凡さに感嘆した。

・・・ほんとに、とんでもない夫婦だよな。

俺は肩をすくめて、首を振った。







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2006年5月10日

藤乃めい




弓さん、お誕生日おめでとうございます。

ちょっと遅くなってしまったけれど、お誕生日のお祝い(とキリリクのお礼?)に、

ラウールくんの受難を書いてみました(笑)。

よろしかったら、もらってやってくださいませ。

(あ、ちなみにラウールはとても気に入ってしまったので、わたしにちょうだいね?)

能天気で幸せなパリの岩城さんの妖艶な姿を書かせてくれて、ありがとう。

とっても楽しかったです(笑)。

2006年6月12日

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な〜〜はっは!!!
可哀想な、ラウールvv
って、全然、可哀想がってないな(爆)
いやぁ、どもありがとう!!
堪らんねvv