夫婦善哉2007








その宴会場は、陽気なざわめきに包まれていた。

老舗の旅館だけあって、大広間のしつらえに高級感があり、

庭先には見事な庭園が広がっていた。

冬の花が枯れ落ち、代わりに春の花が咲き零れていた。

小さな池のほとりには、厳しい枝ぶりの桜の古木。

提灯(ちょうちん)の光を受けて、墨色の夜にほろほろと咲き誇る―――。




浴衣姿の男女が数十人、ビールを片手に笑いさざめく。

いい仕事をした後の、開放感。

そのせいか、誰の表情も明るかった。

無事に山間ロケを終了し、すっかり満足気なチーフ・ディレクターが、

よろよろと立ち上がった。

「えー、それではみなさん。ここで乾杯を、ひとつ・・・!」

浴衣の裾を払って、大声を張り上げる。

「もう勝手に、やってるよ!」

年配のスタッフが、気安く言い返した。

それだけのことに、満場がどっと笑った。




岩城京介の主演する、単発テレビドラマの地方ロケの一夜。

絶境の渓谷に潜伏する犯罪者と、彼を追う刑事の心理サスペンスである。

ひょんなことから刑事役のお鉢が回ってきた岩城にとっては、

珍しく本格的なハードボイルド・ドラマへの出演だった。

ごり押し気味のスケジュール調整の結果、ようやく確保した3日間の撮影日。

日数延長も撮り直しもできない緊張感が、終始プレッシャーとなって、

現場に重く()しかかっていた。

その日は、クライマックスとなるシーンの撮影が終わったばかり。

それだけに、出演者にとってもスタッフにとっても、

羽目を外して騒ぐに相応しい夜だった。




「岩城さん、どうぞ!」

狂気の犯人役を演じた若い俳優が、ビール瓶を掲げた。

「ああ、蘇芳(すおう)くん。ありがとう」

ゆったりと胡坐をかいた岩城が、グラスを掴んで微笑した。

穏やかな笑顔に、蘇芳はほっと肩の力を抜いた。

岩城の痩躯を包むお仕着せの浴衣は、

長身の彼には少々丈不足のようで、

ほの白いくるぶしから向こう脛までが覗いていた。

「大変だったろうけど、よくがんばったね」

何度も監督のダメ出しを食らい、

雨の中、歯を食いしばって全身を震わせていた新人。

「そんな・・・」

耐えがたきを耐えた記憶を思い出したように、蘇芳は顔をしかめた。

衆人環視の中で叱責される辛さと、悔しさ。

むろん、共演者への申し訳なさに、涙が出そうだった。

なにしろ相手役につきあう岩城は、その間ずっと、

春雨とは名ばかりの氷雨に打たれっぱなしだったのだ。

一度も文句を言わず、ただ、見守るようにして。

―――何も口にしなくても、共演者の感じているプレッシャーは、

岩城には手に取るように分かっていたから。

「あれだけの熱演だったんだ。きっと、いい絵が撮れてるよ」

「は・・・そ、そうでしょうか」

岩城の柔らかなねぎらいに、彼は頬を染めた。

「俺なんか、今日はもう、失敗してばっかりで」

「君の、記念すべきデビュー作だ。力が入るのはしかたないさ」

さらりと、岩城が笑う。

「でも俺のせいで、岩城さんにずっと迷惑・・・」

言いつのる若い蘇芳に、岩城は軽く首を振った。

風呂上りの黒髪が、秀でた額を隠すようにさらさらと零れた。

「君は、幾つだ?」

「もうすぐ22歳になります」

そうか、と岩城は穏やかに言った。

「気にすることはない。駆け出しの頃は、俺も同じだったよ」

ほろ酔い加減のせいか、岩城の顔が上気している。

「岩城さん・・・」

ほうっと深く息を吐く先輩俳優の横顔に、

思いがけない芳醇な色香を感じて、蘇芳は眩しげに目を逸らした。




「はーい、ちょっとみなさん、いいですかー!!」

ベテラン音響監督の桧皮(ひわだ)が、

スプーンでビール瓶を叩きながら立ち上がった。

「なぁにヒワちゃん、余興でもあんの?」

「脱いで、脱いでー」

「げっ、そんなもん見たくねえぞー」

ざわめく宴会場が、けたたましい歓声に包まれた。

「まあまあ、そんなに興奮しないの!」

「それでは、宴もたけなわになって参りましたのでー、

『チーム桧皮』恒例、くじ引き宴会芸を始めまーす」

途端に、誰もがやんやの喝采を送った。

にぎやかなリアクションに、岩城は目を丸くする。

鳩羽(はとば)さん、何をするって?」

事情のわからない岩城は、

隣の席で笑い転げているアシスタント・ディレクターに、小声で尋ねた。

「ああ、すみません。岩城さんはご存じないですよね」

岩城と同世代の彼女が、グラスを置いて振り返った。

「桧皮さんの十八番(おはこ)で、要するに物まね大会なんです。

くじで引いたキャラクターの決め台詞を言うとか、踊るとか―――」

「踊る!?」

「ええ、踊ったり歌ったりする人もいます」

「・・・俺もやるの?」

「そりゃあ、もう!」

鳩羽は大きく頷いて、ふふふ、と含み笑いをした。

彼女の意味ありげな笑顔に、岩城がわざと眉をひそめて見せる。

「なんだか、怖いな」

「瞬間芸ですから、岩城さん。引き当てたその役を演じればいいんだから、

プロの役者さんが心配することないですよ」

顔の前で手を振りながら、彼女はそそと岩城に酒を注いだ。

「ありがとう、もういいよ」

「まだまだいけるでしょ?」

自信ありげににっこり微笑まれて、岩城は小さく肩をすくめた。




「じゃあ、坂本くん。えーっと、キャンディ・キャンディをどうぞ!」

「ええ、まじっすかーっ」

陽気な連中が、やいやいと騒ぎ立てる。

「俺、台詞とか、全然知らないっすよ!?」

若いスタッフが、即席ステージの上で呻った。

大きな図体を持て余すように途方に暮れる彼に、どこからか助け舟が出る。

「君の世代じゃあ、キャンディ、知らないよねえ」

「出題したの、誰だよ?」

「あら、年寄りで悪かったわねー」

くじを作った張本人らしい年配の女性スタッフが、

いかにも心外だというように拗ねてみせた。

「じゃあ、何か歌でもいいよ?」

進行役の桧皮が、にっこり笑った。

ほっとした様子で、坂本と呼ばれた青年が頷いた。

カラオケのマイクを受け取って、慣れた手つきで選曲を始める。

岩城はその様子を見ながら、思わず苦笑した。

「どうしたんすか、岩城さん?」

すっかり打ち解けた口調で、蘇芳が首を傾げた。

「いや、今どきの子は違うなあ、と思ってね」

「―――っていうと?」

「ああ、君も同じ世代だな。

・・・何ていうか、人前で歌を歌うことには、抵抗がないんだなあ、って」

ほろ酔い加減の岩城は、ぼんやりそう言ってため息をついた。

「そうっすねー」

イントロの音楽が流れて来るのに、それとなく耳を傾ける。

岩城の白い項が、酔いでほのかに染まっていた。

漆黒の髪との色のコントラストが、灯火の下で鮮やかに浮き立つ。

いけないものを見てしまったように、蘇芳はつい、と目を逸らした。




陽気な宴会は、たけなわの盛り上がりを見せていた。

「―――次は、佐々木さん!」

「はーい」

メイク担当の女性が、恐る恐るくじを引いた。

「えっと、私は・・・デスラー総統!?」

さんざめく会場が、一気にどっと沸いた。

「いいぞ、佐々木さーん」

「ほら、言ってみて!? 親愛なるヤマトの諸君・・・っ」

「ぎゃあ、似てない!」

「できないよー、こんなの」

賑やかな応酬に、誰もが腹を抱えて笑っていた。

「恥ずかしがらない、ほら!」

「・・・わかったわよ、やればいいんでしょ・・・!」






「それでは、ここで今晩のスペシャル・ゲストを―――!!」

慣れた様子で司会を務めていた桧皮が、ひときわ大きな声を張り上げた。

「主演のハリウッド俳優、岩城京介さんです!!」

「いよっ、待ってました!」

「岩城さーん!」

「真打ち登場・・・っ」

「きゃー!」

割れんばかりの拍手と声援。

「・・・そんな、大げさな」

黄色い悲鳴に背中を押されるような格好で、岩城がゆっくりと腰を上げた。

人当たりのいい微笑はそのまま、ただほんの少しだけ、

困惑したような色気を滲ませて。

すでに無礼講の席で、誰もが無責任に岩城をはやし立てた。

岩城は、座布団を器用によけながら、上座へと歩いて行く。

「俺、こういうのは本当に苦手で―――」

「なに言ってんの、岩城くん!」

鷹揚に笑って、桧皮が大きな紙袋を差し出した。

岩城は浴衣の袖を片手で抑えるようにして、そろりと腕を伸ばす。

くじを選ぶほんの一瞬だけ、会場が静まり返った。

「・・・じゃあ、これを」

岩城がつかみ出した小さな紙切れを、桧皮がもったいぶって開いた。

「うわ・・・っ!?」

わざとらしく仰け反った彼に、調子のいい野次が飛ぶ。

「なに勿体つけてんだよーっ」

「ねえ早く、教えてよ!」

甲高い声に、岩城はひそかに苦笑した。

「―――それでは、発表します!」

あくまで、陽気な酒宴ではあったけれど。

もう誰もが、とうに箍を外しているのは明らかだった。

「岩城さんには・・・岩城さんには・・・っ」

「だから、早く言えって!」

たちまち沸き起こったブーイングを制して、彼が叫んだ。

「遠山の金さんを、やってもらいます!!」




岩城は虚を突かれて、一瞬、ぽかんと無防備な表情を見せた。

それから顔が、それとわかるほど紅潮する。

「ええ―――っ!?」

宴会場からは、いっせいに陽気な声援が上がった。

「いいよ、それ、いい! 最高!!」

「岩城さんの金さん、見たい・・・!」

「お奉行さまーっ」

派手な口笛が、会場のムードをいっそう煽る。

大歓声と拍手に、岩城は居心地が悪そうに頭をかいた。

「ホントにやるんですか?」

「もちろん!!」

「でも、俺・・・」

「知らないなんて、言わないよね!?」

「いや、そんなことは―――」

赤ら顔の桧皮に促されて、岩城は即席ステージの中央に立った。




「ええっと、じゃあ・・・」

照れたような微笑を浮かべて、岩城は広い宴会場を見渡した。

「俺は本当に、例の決め台詞しか知らないんで。お目汚しですけど―――」

言いながら、立ち位置でしっかりと足を踏みしめる。

左手がふわりと上がり、木綿の浴衣の右袖をぐい、と掴んだ。

大騒ぎをしていたスタッフたちが、期待でざわめく。

さわり、と開けっ放しの障子から、春宵の冷気が流れ込んだ。

いったん俯いた岩城が、すいっと顔を上げる。


「・・・この桜吹雪が、目に入らねえか!」


切れ長のまなざしが、鋭く闇色に光った。

じろりと辺りをねめつけて、岩城は畳の上で片膝をつく。


「あの日あの夜あの場所で、見事に咲いたお目付け桜―――」


岩城は袷に手をかけ、勢いよく右肩を露わにした。

きれいに筋肉の乗った、引き締まった身体だった。

肌理の細かい白磁の肌が、蛍光灯にぬめりと光る。

誰かがひそかに、息を呑んだ。


「・・・まさか、見忘れたとは言わせねぇぞ!」


よく響く低めの美声で、岩城は鮮やかな啖呵を切った。

かろやかな身のこなしで、北町奉行お得意のポーズを取る。

一瞬、その場が水を打ったように静まり返った。

それから、拍手。

割れんばかりの歓声が、宴会場を揺るがした。

「すっごーい!!」

「岩城さん、かっこいい! サイコーっ」

「アンコール、アンコール!」

膝を立てたその裾を整えながら、岩城はゆっくり立ち上がった。

片肌脱ぎのまま、笑って軽く会釈する。

誰彼となく、岩城の思いがけない熱演に、興奮気味だった。




「あれぇ、岩城さん・・・っ」

岩城の目の前に座っていたチーフ・ディレクターが、ふと、顔を赤らめた。

「え?」

振り返りざま、岩城が首を傾げる。

「なんですか?」

身を乗り出してきた桧皮が、ディレクターの視線を追った。

「監督、どうなさった―――」

不思議そうな顔。

岩城のむき出しの二の腕を見て、それからゴクリと喉を鳴らした。

「岩城くん、それ・・・」

酔っ払いならではの大声を張り上げて、彼はそれを指差した。

「あっははー、本当にあったんだ、桜吹雪!!」

「はあっ!?」

ぎょっとして、岩城は自らの肘を抱えるようにして腕を検分した。

「・・・っ!!」

ほの白い肌の、腋下から肘にかけて。

それから、腕のつけ根から腰へのなめらかなラインに。

やわらかい肌に刻印するように、点々と赤い鬱血の痕が散っていた。

見るも鮮やかな朱色から、はかない淡い色合いまで。

濃淡もなまめかしい、入念に愛された証。

―――それこそ、はらはらとこぼれ落ちた桜の花びらのように。




「ひ、卑猥・・・っ!!」

誰かが、素っ頓狂な声を上げた。

宴会場がどよめき、囁きがうねりのように広がる。

「いやあ、こりゃまた、呆れたもんだねえ」

「よくまあ、こんなに・・・!」

年配のスタッフが、いっそ感心したように顎を撫でる。

「あの、バカ・・・っ!」

吐息だけでそう言って、岩城は慌てて袖を引き上げた。

憤然とした表情で、周囲のざわめきを伺う。

そのときにはもうとっくに、誰もが、

岩城の肌の色っぽい桜吹雪の正体に気づいていたけれど。

「はーん。犯人は・・・って、聞くだけ野暮だな、岩城くん」

歌うように、桧皮がにんまりと笑った。

「岩城くんもやるねえ。いや、香藤くんも、って言うべきかな?」

「桧皮さん・・・っ」

「おしどり夫婦だってのは、聞いてるけどさ。ホントに、お熱いんだねえ」

探るような、遠慮のない視線。

いたたまれなくて、岩城は真っ赤な頬のまま俯いた。

「・・・監督」

「いいじゃないの、今さら隠さなくても」

「―――そういうことじゃ、なくって」

言葉に詰まって、岩城が眉をしかめた。

さっきまで鋭利な刃物のような表情を浮かべていた顔が、

今は耳まで血が上っている。

ぞんざいに浴衣の乱れを直す岩城に、手加減なしの揶揄が向けられた。

「うひゃあ、スゴイもん見ちゃったー」

「なんか、目の毒なんだけど・・・っ」

「岩城さん、そんなの見せちゃって、香藤さんに怒られないー?」

嬉々として茶々を入れるスタッフに、岩城は微苦笑を返した。

「そのくらいで、勘弁してください」

降参のポーズで両手を小さく挙げ、そそくさと自分の席に戻る。

耳まで赤く染めたまま、岩城はどさり、と再び胡坐をかいた。




「―――岩城さん、大丈夫っすか?」

追加で運ばれて来た冷えたビールを掲げて、蘇芳が聞いた。

「・・・ああ」

深呼吸をして、岩城が低く答えた。

乾いた唇を潤すように、そろりと舌が蠢く。

その艶かしさに、蘇芳は視線を泳がせた。

「色っぽすぎるって―――」

「え、なに?」

「なんでもないっす!」

首を左右にぶるぶると振って、蘇芳は酒を注いだ。




騒がしい宴会場がひとしきり満足した、ちょうどそんなタイミングで。

「お邪魔しまーす!」

明るい声が響いて、下座の襖がからりと開いた。

「おはようございます。押しかけちゃって、すみません!」

丁寧に頭を下げて、長身の男が入って来た。

すとんとしたラインのユーズド風ジーンズに、

見事に鍛え上げられた上肢を誇示するかのような、

鮮やかなタイトフィットのプリントシャツ。

片腕には、革のジャケットとトレンチコートを抱えている。

「・・・香藤さん!?」

「ええ―――!」

一度は鎮まりかけたざわめきが、再び興奮に転じた。

「なんで、香藤くんがここに!?」

華やかなスターの登場に、近くにいた鳩羽が目を丸くする。

香藤は長身を折るように、いちばん下座にちょこんと正座した。

「いや、すみません。

外で待ってるつもりだったんだけど、仲居さんに引っ張られちゃって・・・」

頭をかいてから、香藤は小さく頭を下げる。

「えっと、こんばんは。今日は俺、ただの運転手ですから」

柔らかな栗色の髪をかきあげて、にっこりと笑う。

その視線の先には、もちろん岩城がいた。

「香藤・・・」

岩城の唇から、ほうっと吐息がもれた。




若い女性が数人、ビールを持って香藤にいざり寄った。

彼がいるだけで、その場が日が差したように華やぐ。

「ひょっとして、岩城さんのお迎えなんだ?」

「はい」

まるで屈託のない笑顔で、香藤が頷く。

「今晩で、ロケ終了って聞いてたから」

「わざわざ、都内から?」

「ここ、交通の便が悪いからね」

それから差し出されたビールに、申し訳なさそうに首を振った。

「ごめん、車なんだ、俺」

「あら、いいじゃないの。ゆっくりしていけばいいのよ?」

顔見知りのスタッフが、なおもグラスを押しつける。

香藤はもう一度にっこり笑って、首を横に振った。

「ありがとう、気持ちは嬉しいんだけど。

でも俺、岩城さんを乗せるときは、一滴も飲まないって決めてるから」

きっぱりとそう言う香藤に、どこからか口笛が聞こえた。

「ひゅーひゅー」

「すっごいノロケだよ、それ?」

盛大に飛んだ野次に、岩城が顔を赤らめる。

一方の香藤は、なんら動じることなく頷いた。

「みなさんの前で一度、言ってみたかったんです」

陽気な反応に、会場がどっと沸いた。

「・・・あんの、バカッ・・・」

低く呻くように、岩城が悪態をついた。

辛うじてそれを耳にした蘇芳が、びっくりして振り返る。

「岩城さん・・・」

先ほどまでとは違う意味で、真っ赤に頬を染める岩城と。

宴席のはるか向こうで、大人しく座っている香藤と。

交互に見やって、くすり、と笑った。

「・・・なんだ?」

それに気づいて、岩城がうっそりと顔を上げる。

「話には、聞いてましたけど」

「・・・何を?」

ため息をつきながら、岩城が先を促した。

「岩城さんと、香藤さんのことです」

にっこり笑う新人俳優に、岩城はあいまいな笑顔を返した。

何を聞いているのか、できれば知りたくはない、そんな表情で。

「あの人が、あんなすごいキスマークを、ねえ・・・」

さらりと口にする蘇芳に、岩城は絶句した。

「どっ・・・」

「だって、ああやってるのを見ると―――」

物怖じしない若者は、香藤のほうを見やって、もう一度笑った。

「香藤さん、いかにも好青年って感じで。

岩城さん相手に、すっげー濃厚なセックスするとこなんて、

ちょっと想像できな・・・」

「・・・わかったから!」

堪らずに、岩城は彼を遮った。

「ほら、いいから飲もうな!」

空のグラスを蘇芳に押しつけ、無理やりビールをそそぐ。

「あれ、岩城さん―――」

耳まで真っ赤ですよ、と言われるより早く。

岩城は立ち上がって、香藤のいる方角に歩き出した。




「あ、岩城さん」

近づいてくる岩城の姿をみとめて、香藤が嬉しそうに笑った。

一方の岩城は、憮然とした顔つきのまま、香藤の隣りに腰を下ろす。

浴衣の裾がひらりと翻ったのを見て、香藤がすっと手を伸ばした。

まるで、岩城の足を隠そうとするように布を引っ張る。

「おい・・・」

「なんだか、ご機嫌ななめだね」

岩城の顔を覗き込んで、低く囁いた。

「・・・早く帰ろう」

「いいけど。俺、来たばっかだよ?」

短い、密やかな会話。

ふたりの一挙一動を追いかけていた誰もが、いっせいにさんざめいた。

「見せつけてくれるなあ」

「いよっ、ご両人!」

岩城はちろりと香藤を横目で見たが、無言のまま。

「ねえ、何かあったの?」

香藤の無邪気な問いにも、岩城はむっつり首を振るばかり。

「ちょっと、岩城さん・・・」

拗ねた恋人に言い募ろうとした香藤の袖を、スタッフのひとりが引っ張った。

「岩城さん、照れてるだけだと思いますよぉ」

「なんで・・・?」

「だってねえ―――」

「おい柳、よさないか」

「いいじゃないのー」

「岩城さんの、さくら・・・」

ご注進するほうも、それをいさめるほうも、相当に酔っているらしかった。

「へ?」

「いいから、いいから!」

「さくら・・・?」

さっぱり要領を得ない説明。

香藤は苦笑して、辺りを見回した。

その視線をきっかり捉えて、桧皮がゆらりと立ち上がった。

「桧皮監督、お久しぶりです」

「ああ、香藤くん」

挨拶に立ち上がりかけた香藤を、岩城が引き止めた。

「帰るぞ、香藤―――」

「どうしたの?」

鼻先をこすりつけるように、香藤が囁く。

「どうも、様子が変だなあ」

「いいから・・・」

腰を浮かしかけた岩城に、桧皮が酔ったダミ声をかけた。

「あれー、岩城くん帰っちゃうの?」

「ええ、監督。そろそろ・・・」

「そうかそうか。ま、愛しの香藤くんが、迎えに来たんじゃねえ」

「・・・もう遅いですから」

岩城が小さく言い訳する。

「これでまた、桜吹雪、増えちゃうのかなあ」

にんまりと、赤ら顔がうそぶく。

「・・・!」

途端に絶句した岩城に、香藤が首をかしげた。

「どしたの、岩城さん。桜吹雪って・・・?」

「遠山の金さん!!」

そのとき、背後から大声が響いた。

「きゃははー!」

酔っ払ったスタッフの女性が、けたたましく笑っていた。

「ねえ、香藤くーん」

「え、はい?」

「岩城さんはねぇ、金さんやったんだよぉ」

ふにゃふにゃ蕩けた声で、若い女性がうふふ、と笑った。

「おい、やめろって」

「お奉行サマ、かっこよかったあ」

岩城はくるり、と背を向けた。

「帰るぞ、香藤!」

すらりとした首筋と、そこから続く耳のライン。

後ろからでもはっきりわかるほど、赤くなっていた。

「待ってよ、岩城さん!」

慌てて追いかける香藤に、宴会場の陽気なさざめきが追いかける。

「すっごくエッチな、桜吹雪―――」




はたと、香藤の足が止まった。

岩城の背中はどんどん遠ざかり、宴会場の出口の襖に迫っている。

それを目の端に捉えながら、香藤は目をぱちくりした。

「えっちな桜吹雪・・・? 遠山の・・・?」

眉間に皺を寄せて、香藤が呻った。

「それって、もしかして・・・っ」

途端に香藤は、座布団を蹴散らして走っていた。

「ちょっと待ってよ、岩城さん!」

背中を押すような、やんやの歓声。

「―――まさかと思うけど、その浴衣、人前で脱いだのっ!?」

焦ったような大声に、岩城がびくりと反応した。

肩をいからせて、香藤を睨みつける。

「あれほど、痕はつけるなって言っただろう・・・っ」

追いついた香藤を、岩城は吐息だけの罵声でなじった。

その目元が、ほんのり徒っぽい桜色に染まっている。

「だって岩城さん、今度の撮影は脱がないって言ったじゃん!」

「だからって、痕をつけていいってことあるかっ」

「・・・じゃあなんで、脱がないなんてわざわざ俺に言ったのさ!?」

ぐっと、岩城が答えに窮する。

―――ほんの一歩、二歩。

肩で息をする岩城を見つめながら、香藤はゆっくり近づいた。

上気した岩城のさまよう瞳を至近距離で見つめて、愛おしげに目を細める。

「あのねぇ、岩城さん」

子供に言い聞かせるような、優しい口調。

「・・・」

「痕のあるなしじゃ、なくてね」

香藤の手のひらが、つうっと岩城の浴衣の袖を撫でた。

「仕事ならしょうがないけど、それ以外で、肌を晒すのはなしだよ」

「・・・かと・・・」

「わかってるでしょ。俺がそういうの、嫌だって」

「・・・うん」

荒かった息をようやく鎮めて、岩城がこくりと頷いた。

照れ隠しのような、小さな笑みがこぼれる。

「・・・すまん」

甘い沈黙が、ふたりの間に落ちた。

「帰ろ、岩城さん」

「ああ―――」

差し出された香藤の手に、ごく自然に自分の手を添えそうになって。

岩城ははたと、周囲の視線に気がついた。

「どえー」

「・・・うわあ、ベタ甘っ!!」

感嘆の吐息が、いっせいに漏れる。

「・・・っ!」

それ以上ひやかしの声に耐えられなくて、岩城は襖を開いた。

「あ、待ってよ、岩城さん―――」

香藤の声を聞きながら、岩城は御影石の踏み台を降りかけた。




「あ・・・っ?」

「え―――!?」

ぴかぴかに磨き上げられた踏み台で、スリッパが滑った。

「きゃあぁ―――!!」

「岩城さん・・・っ」

酔客の大げさな悲鳴に、香藤が猛ダッシュをしたが。

それより早く、岩城は足を踏み外し、どさりと廊下に転がった。

「つぅっ・・・」

段差はそれほどないのだが、倒れた拍子に足首を捻ったらしい。

くるぶしに手をやって、岩城は眉をしかめた。

「岩城さん!!」

誰よりも先に、血相を変えた香藤が駆け寄った。

打ち水された黒々とした石を飛び越えて、岩城の背中を起こす。

「大丈夫っ!?」

「ああ・・・」

眉をしかめながら、岩城が苦笑した。

「みっともないな、こんなところで転ぶなんて」

香藤の肩につかまって立とうとして、ゆらり、と身体がかしぐ。

「あれ・・・っ?」

「痛いんでしょ、足。無理しちゃダメだよ!」

ざわめく宴会場からだけでなく、ロビーの方角からも人が集まってきた。

それに気づいた岩城の顔に、再び朱が上る。

「どうなさいました」

和服姿の中年女性が、そそと走り寄った。

「いえ、あの、ちょっとつまずいて・・・」

きまり悪げに、岩城が説明する。

「まあ・・・」

痛ましそうに、女性が顔をしかめた。

「お医者さまを、お呼びしましょうか」

申し訳なさそうにそう言われて、岩城は首を振った。

「いや、ご心配なく。たぶん捻挫ですから、湿布でもいただければ」

「・・・岩城さん、でも」

心配そうな香藤に、岩城は笑ってみせた。

「いいから、手を貸してくれ」

香藤の腕をしっかり掴んで、岩城は再度、身体を起こそうとした。

「・・・んっ・・・」

ふらりと立ち上がったものの、額には脂汗が浮いていた。

「悪いな」

小さく断って、体重を半ば香藤に預けた。

周囲では、誰もがじっとふたりの様子を窺っていた。

「岩城さん・・・」

ふらつく細い腰を支えて、香藤が声を低めた。

「これじゃ、歩けないじゃない」

「―――とりあえず部屋に戻って、安静にすれば・・・」

かすれ声で、岩城が囁く。

とにかくこの場を去りたいのが、その表情から見て取れた。

「無理だよ、もう」

意地っ張りなんだから、と独り言のように呟いて。

大きく深呼吸すると、香藤は岩城の身体を反転させた。

「・・・え?」

「じっとしててよ」

甘い囁きが、岩城の耳元に落ちる。

思わず首をすくめた岩城の身体が、ふわりと宙に浮いた。

「うわ・・・っ」

驚愕の声を上げたのは、誰だったのか。

岩城があわててもがいたときには、香藤はもう、恋人を横抱きにしていた。

「おい、香藤・・・っ」

「いいから、動かないの!」

びしりとそう言って、岩城の腰を揺すりあげる。

「下ろせ、バカ―――ッ」

「歩けないくせに、なに言ってるの」

香藤の有無を言わせぬ語気に、気圧されて。

憮然とした表情のまま、岩城は仕方なく身体の力を抜いた。




「すげぇ・・・!」

「おいおい、マジかよー」

いとも簡単に大の男を持ち上げた香藤に、スタッフが目を丸くした。

「大丈夫、香藤くん?」

香藤が置き忘れた二人分の上着を、鳩羽が持って近づいた。

「これ、どうしようか」

「ああ、ありがとう。腕にかけてくれる?」

岩城の体重をものともせずに、香藤がにっこり微笑した。

「あの、岩城さん?」

香藤に抱かれた岩城に、鳩羽が声をかけた。

「・・・お見苦しいところを」

苦笑する岩城を覗き込むようにして、彼女が笑う。

「とんでもない。岩城さん、本当に羨ましいわ」

「え・・・?」

「だって、香藤さんみたいな旦那さまって、女の子の理想よ?」

心底ねたましい、と言わんばかりの真顔。

「旦那って・・・」

絶句した岩城の頬が、またしても赤く染まった。

そのいたたまれない表情に気づいて、香藤が宴会場を振り返った。

「それじゃあ、俺たちはこれで失礼します!」

ぺこりと、深く頭を下げる。

明るい茶色の髪が、さらさらとこぼれて散った。

にっこり笑ったまま、

岩城を好奇の視線から守るように、ぎゅっと胸元に抱き寄せる。

「お先に―――」

もう今さら、なにをどう取り繕いようもなくて。

「・・・おやすみなさい」

岩城はひと言口にすると、あとは観念して目を閉じた。




「おやすみなさーい」

「お大事に、岩城さん!」

「お疲れさまでしたー」

スタッフの声が、廊下に幾度もこだまする。

賑やかな祝宴がようやく終わり、夜はとうに更けていた。




香藤はくるりと方向を変え、ゆっくり廊下の奥へ歩いて行った。

すっかり疲労困憊の岩城に、そっと声をかける。

「大丈夫、岩城さん?」

「ああ・・・」

疲れた、と呟く岩城のバリトンが掠れた。

「眠い?」

ああ、と岩城がぼんやりと応える。

重たげな瞼は、先ほどから閉ざされたまま。

「岩城さんの部屋、どこ?」

「突き当りを右、いちばん奥・・・」

あくびをかみ殺しながら、道順を伝える。

ようやく訪れたふたりだけの静寂に安心したように、

岩城はぐったりと身体を弛緩させた。

「岩城さん・・・」

「・・・ん?」

条件反射のように、香藤に応えながら。

岩城は無意識に逞しい腕を指先でたどり、香藤の手を捕まえた。

香藤の手のひらを、胸に抱くように引き寄せる。

その幼い子供が甘えるような仕草に、香藤は頬を綻ばせた。

「かわいいね、岩城さん」

ひそやかな愛の言葉が、岩城の上から降って来る。

「何を言ってる―――」

目を閉じたまま、岩城は陶然と微笑した。






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2007年4月10日

藤乃めい


弓ちゃん、サイト開設2周年おめでとうございます♪

記念に書いた桜吹雪の岩城さんを、どうぞもらってやってね。

これからもいっぱい、さぶらぶ☆ほもえろを書いてください(爆)。

いつまでもいつまでも、応援してます。



お宝へ      どへへへへ・・・・・vvvvv
     2年越しに待ってた、岩城さんの桜吹雪〜vvv
     ・・・か、可愛い・・・
     可愛すぎる・・・・!
     この宴会に、出たかったな〜(爆)
     ましゅまさん、ありがとね〜vv