桜餅





「・・・秋月さん。」

草加が、声をかけて襖を開いた。

秋月は、開け放たれた格子に身を寄せ、外を見つめていた。

格子枠に肘をつき、

新緑を渡ってくる風に、前髪が揺れるほかは、

ほんの僅かな身動きもせず、

なにを見るでもなく、

日がな一日、そうしている。

草加の声に、返事を返すことも、ない。





それには構わず、草加は秋月の傍に、腰を下ろした。

いつものように、その背中に語りかける。

「今日ね、会合で向島に行って来たんだ。」

「早く終われたから、久しぶりに、弁天様にお参りしてきたよ。」

背中を向けたままの秋月の肩が、

かすかに動いた。

それに勇気を得たように、草加は言葉を続けた。

「もう、ずいぶん前になるね、いっしょに行ったの。」





草加は、脇に置いてあった盆を引き寄せた。

「お茶、入れてきたよ。」

そういいながら、掛けてあった覆いを取ると、

そこには、湯呑が二つ。

皿には、向島、長命寺名物の、

桜の葉三枚で包まれた、桜餅。

「食べて。」

秋月は、視線だけを巡らせ、

その皿の上の桜餅を、黙って見つめた。





秋月は、お茶を啜りながら、

草加が食べるのを、見るともなく見ていた。

ほんの少しだけ、

寂しそうな顔をしながら、草加は、話を続けた。

「秋月さん、桜餅、食べたことがないって言ってたよね。」

「いくつ、食べたっけ、あの時?」

そう言って、草加は黙った。





沈黙が続き、かなりの間が空いて、

草加が諦め、その横顔から目を逸らしたころ、

秋月の声がした。

「・・・みっつ・・・。」

くすっ、と笑う草加の声に、

秋月は少し顔をしかめた。

「そうだっけ?よっつじゃなかった?」

「・・・もう・・・忘れた。」

小さく呟いて、秋月は黙り込んだ。

「そう・・・。」

・・・草加の溜息が心に刺さった。










冷たい言葉で、草加を、母屋に追い立て、

去っていく足音に、布団の中で身体を丸め、

痕が残るほど、手を握り締めて、

喉元まで出かかる言葉を、

耐える。

・・・言ってしまえたら・・・

・・・言えるものならば・・・





草加がいる間、秋月はその餅に、

手をつけることは、なかった。

まだ、火照りの残る身体を起こし、

文机の、上におかれたその皿に、

視線を止めた。





小刻みに震える手で、襦袢の前を調え、

気だるい身体で、布団から這い出し、文机に膝行った。

「・・・懐かしいな。」

見つめる秋月の頬が綻び、

ぽつり、と言葉が零れた。

草加がいるときに、言わない自分に、苛立つ。

・・・応えては、やれない

・・・応えるわけには、いかない

皿の上に、一つ残された桜餅だけが、秋月を責めた。





そっと手を伸ばし、手の平にのせ、

愛おしげに、それを眺めた。

・・・口の中いっぱいに桜の香りがする・・・

・・・あの時と、変わっていない・・・

餡のあっさりした甘さと薄皮と程よい塩加減の、桜の葉。

「・・・しょっぱいな・・・。」

頬を伝う涙が混ざった。





昔、二人で出かけたときのことが、脳裏に浮かんだ。

・・・食べたことがない、といった俺を、

店まで引っ張っていった、草加。

掴まれた腕に、思わず笑みが零れた。

桜の散る中、

大川の畔で、二人で、食べた。

世間知らずの俺を、

笑って包み込んでいた、草加。





頬を染め、輝く瞳で、熱く夢を語っていた。

未来に馳せる情熱が、眩しくもあった。

・・・その、夢の中に、俺も、いた。

あのときの、草加の笑顔と、

突きつけられる、現実。





その熱さを、情熱を、笑顔を、

草加から奪った、自分。

草加の瞳を、凍らせ、

あまつさえ、未来すら奪いかねない、

囲われものの、我が身。





もう二度と、

許されることのない、ひと時。

穏やかな、逢瀬。

向けられることのない、微笑。

まじわることのない、視線。

かわされることのない、言葉。

重なることのない、心。





後悔。

そんな言葉では、追いつかないほどの、

慙愧。

それでも、草加を、追い求めずにはいられない、

生き恥をさらす、自分。

捨て去ることの出来ない、

狂おしいほどの、想い。

忘れることなど出来ない、

今も、肌に残る、草加の温もり。





草加によって、阻まれた何度かの、自害。

・・・俺は、本当に、死のうとしたのだろうか・・・

命を取り留めて、目を開き、

そこに見つけた草加の涙を、

喜んではいなかったか・・・

草加が、死ぬなと、掻き口説くのを、

嬉しいと、

感じてはいなかったか・・・





共に戦った仲間に対する裏切り。

自分ひとりだけ、のうのうと、

草加の庇護の下で、なに不自由なく、

時を、過ごす。

心を掻き毟られるような、

後ろめたさ。

その同じ心が、草加の抱擁に、

打ち震える。

火をつけられるのを、忌みながら、

それを待ち望む。





なくした左足が、草加を縛り付け、

自由を奪う。

まるでくびきのように、

この離れに。





・・・未だ死を望みながら、

それを貫徹する気も萎え、

なお、草加の腕を追い求め、

草加の楔を、悦ぶ、

そのくせ、草加を遠ざけようと、

草加の心を、拒否しようと、

足掻く。

心を閉ざしたふりをして・・・。





その矛盾と、浅ましさに、

気付いていながら、

見て見ぬふりをする。

・・・心が、引き千切られそうだ・・・





・・・いっそ狂えてしまえたら・・・





手の中に、握りこんだ匂い袋。

・・・あの大川の、想い出の・・・

その小さな存在だけが、

うつし世と、隠し世の、

狭間に揺らぐ、俺の心を、

危ういところで繋ぎとめる。





・・・草加・・・俺を、望むな・・・

・・・草加・・・俺を、捨ててくれ・・・





・・・草加・・・俺を、・・・










・・・下げられた、空の皿が、草加に告げる。

「憶えている。」

と・・・。






                〜終〜





               2005年3月16日
                    弓




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