胡蝶の夢   ―その後―





祖母が逝った。

忙しい両親に代わって、私を育ててくれた、と言ってもいい祖母。

お葬式の後、父と母は遺品の整理をする暇もなく仕事に戻り、

結局それは私の役目。

学校の休みの時に、ちょっとずつ片付けていった。

ある日、その遺品の中に、一枚の古い、とても古い写真を見つけた。

ワードローブの中に、紙と布で大事そうに丁寧に包んであったそれを、

初めて開いて見た時、ドキン、と心臓が跳ねた。

見たこともない、ハンサム。

今は、彼が日本人だって知っているけれど、その時は何も知らなくて。

ただ、スーツの上に大学のガウンを着た彼のその、

どこか寂しげな瞳に心がときめいた。

一体、彼が誰なのか知りたくて、

祖母の残した日記を片っ端から読み漁った。

それによると、彼は祖母のそのまた祖母が娘時代に、

家に下宿していた留学生だった。

祖母は、彼女の祖母からその話を聞かされて育ったらしい。

日記には、ただ、「トーマ」としか書かれていなかった。

祖母の、多分宝物だったその写真は、それ以降私の宝物になった。

私は、その写真を祖母から譲られたジュエリーボックスに入れて、

時折取り出しては眺めた。


祖母が亡くなったとき私はまだ十代で、

写真に映っている男性が誰なのか、調べることが難しかった。

それから何年か経ち、私は大学生になってやっと、

彼のことを自力で調べることが出来るようになった。

国立図書館に行ったり、日本大使館に行ったり。

あちこち走り回って、ようやく彼が誰なのかを知った。

彼の名前は、「トーマ・クサカ」。

かつて、日本で長州と呼ばれていた地域から、

このロンドンへ留学に来た人。

アジア人だとは思わなかった。ましてや、日本人だとはね。

だって、彼は目鼻立ちのくっきりした、ハンサムだから。

背も高かったそうだ。足も長くて、スーツが似合ってる。

写真の彼の隣に、祖母の祖母、メアリーが写ってる。

祖母を亡くした頃の、私と同じ年くらい。

トーマを挟んで、反対側に座っているのはメアリーのマザー、エマ。

ちょっと太目の、でも優しそうな顔。

それから、トーマの後に立っているのが、ファーザー、ジェレミー。

口髭をはやして、彼もカッコイイ。でも、トーマのほうが数倍素敵。

大学でも、いい成績だったらしい。

けれど、トーマは学業の途中で日本に帰っていった。

あの頃の、日本へ・・・戦争の真っ只中に。

どんな気持ちだったんだろう。

彼が日本人だとわかって、日本に対して興味が湧いた。

大学の専攻は違っていたけれど、

教授にお願いして講義を受けるようになった。

彼が生きていた頃の、日本。彼はどんな風に生きたんだろう。

そして、彼のあの寂しげな微笑の訳って・・・。





「おはよう、トーマ。」

「うん、おはよう。」

草加が軽くあくびをしながら、大きなダイニングテーブルについた。

エマが、フットワークよく朝食の仕度をし、草加の前に皿を並べた。

「いただきます。」

両手をそろえて挨拶をし食べ始めた草加を見て、

エマは小首をかしげてくすり、と笑った。

そのままダイニングを出て行き、戻ってきたエマの手には

ブラシが握られていた。黙って草加の後ろに回り、

くしゃくしゃになった髪を撫で付けた。

「あ、ごめん。」

「トーマ、そういうときは、ありがとうって言うのよ。」

「あ・・・ありがとう。」

「食べながらでいいわよ。まったく、いい男が台無しだわ。」

草加はもぐもぐと口を動かしながら、エマがブラシを使うに任せた。

「おはよう、マザー!、トーマ!」

「おはよう、メアリー。朝ごはんを食べなさい。」

「は〜い。トーマ、また髪を撫で付けてなかったの?」

「まぁね。」

メアリーが草加の前に座り、テーブルに頬杖をついてクスクスと笑った。

「子供みたい。」

「メアリー、失礼よ。あなたの方が子供でしょう。」

「いやぁね。マザー、私は自分の髪くらい、自分で綺麗にできるわ。」

草加は、その二人のやり取りを微笑んで見ていた。

日本人である自分を、

本当の家族のように迎え入れてくれた、ホストファミリー。

スコーンやら、紅茶などを物珍しげに喜ぶ草加の笑顔を、

嬉しげに眺めてくれる。

父親、ジェレミー・ブラッドフォードは厳格だったが、

けして頭の固い人物ではなく、

娘にも勉学を勧める柔軟な感性の持ち主だった。

「ファーザーは?」

「もう、お出かけしたわよ。」

「ふぅ〜ん。」

19世紀中ごろのロンドン。

経済発展が目覚しく、父親は銀行の頭取としてその先頭に立ち、

目の廻るような忙しさだ。その代わりにハムステッドに邸宅を構え、

家族は何不自由なく暮らしている。

本来なら、朝食の支度などコックの仕事だが、

エマは必ず自分で料理する。

それが家庭ってもの、彼女はそう言って、

朝食の場をコックに譲らなかった。

「じゃ、俺、行ってくる。」

「はい。トーマ。」

エマがランチボックスを手渡した。

「うん。ありがとう。」

「行ってらっしゃい。」


産業革命とよばれる産業構造の変化が、

一八世紀後半のイギリスで始まった。

やがてそれは世界中に広がり、

社会経済の仕組みをそれまでとは

全く違ったものに変えていくことになる。

簡単に言えば、ここから資本主義社会、

工業化社会が誕生するのだ。

その真っ只中に、草加はいた。

激動の時代。

祖国日本は、国を二分し戦おうとしている。

尊王を叫び、倒幕、攘夷を唱える。

・・・だが、実際に外へと飛び出した草加の目に映ったもの。

蒸気を上げて地上を走る、鉄の塊。

巨大な紡績機が、あっという間に巨大な布を織り上げる。

祖国では、考えれられない光景。

ここ、英国にも王室がある。貴族、という階級もある。

だが、庶民にある程度の自由がある。

選ばれた議員が、議会で国政の全てを決定する。

ブルジョワと呼ばれる資本者階級が生まれ始めた。

祖国が狭い視野で、自国人同士角突き合わせる。

その狭了さに、溜息が出る。

「遅れてる、日本は。かなりの部分で・・・。」

それと同時に、草加の脳裏に浮んだ姿。

坂道を降りながら、俯きかけた顔を上げて、草加は微笑んだ。

「待っててくれてる、必ず。」



「よォ、トーマ。相変わらず、昼食は作ってもらってるのか?」

「ああ。エマがね。持たせてくれる。」

中庭の芝生に座って、サンドイッチを取り出した草加に、

クラスメイトのエドワードがいささか面映そうな顔で、

その藤製のボックスに視線を向けた。

「なんだかなぁ、子供みたいだな。」

「なに言ってんだ、羨ましいくせに。」

別のクラスメイト、ロバートが、

草加の隣に腰を下ろしながら口を開いた。

「ふふ。」

草加はもぐもぐと口を動かしながら、微笑んだ。

「だってさ。食堂で食べるのって、大変なんだから。」

「知ってるよ。」

草加が頷きながらエドワードに同情するように、眉を寄せた。

毎回の食事の際に正装の上に黒いガウンを着用し、

一同が定刻に食堂へと集まり、グラスが鳴らされてスピーチの始まり。

銅鑼が鳴り全員起立の上、ハイテーブルからラテン語のお祈り。

それから、ようやっと食事。

草加は、それらのわずらわしさから逃れられていることを、

密かに感謝していた。

「いいよな、お前。留学生だから。」

「違うよ。ここが他のコレッジより自由な校風だから、

許されてるだけだよ。」

「でも、寮にも入ってないじゃないか。」

少し意固地になって言うエドワードに、ロバートが笑い声を上げた。

「やめろよ。トーマはスカラーガウンを着る権利を持ってるんだぜ?

それだけの成績を、チュートリアルで修めてるんだ。

食事の自由だって下宿の自由だって、与えられるさ。当然だろ?」

「そりゃ、そうだけどさ。」

気まずくなって、彼は黙り込んだ。

草加は、ランチを食べ終わるとほっと息をはいて、

立てた膝を抱え込んだ。

「俺は、遠い日本からの留学生だからさ。

珍しくて、大切にされてるんじゃないかな。」

「そんな事ないさ!」

さっきまで草加に突っかかっていたエドワードが、慌てて首を振った。

「・・・すまん。俺、ちょっと嫉妬してた。お前、パーフェクトだから。」

「なに言ってんだよ。それこそ、そんな事ないよ。」

「いや・・・成績も、英語も。それに、なんていうか、外見もさ。」

「あれ以来だろ。」

ロバートがくすくすと笑いながらエドワードの肩を、草加越しに叩いた。

はは、と草加は思い出して笑い声を上げた。 

草加が初めて大学に現れた時、同級生達は物珍しさと、

東洋人に対する見下した視線で草加を見ていた。

それがある日、ひょんなことから払拭された。

得てして、東洋人は若く見られる。

草加の場合は、その屈託のない笑顔によって、より若く見られていた。

実際は、彼が一番年上だったのだが。

ある時、クラスメイトの一人が草加を軟弱、と揶揄した。

草加はそれを笑って聞き流していたが、

エドワードは執拗に剣の試合をしろと迫った。

彼は、フェンシングの前年度イングランドチャンピオンだったのだ。

あまりのしつこさに閉口した草加は、仕方がない、とそれを承知した。

中庭に人垣ができ、見物に来た教授から草加はステッキを借りた。

エドワードは、サーベルを右手に持ち、左手を優美に後ろに流した。

アンガルド、というフェンシングの立会いの最初の構えである。

周囲から、その姿の良さに感嘆の声が上がる。

そして、それに反して草加の無防備さに呆れて首を振る者が大勢いた。

草加は、拝借した樫の木の杖を右手に持ち、

その右手も左手も構えることもなく、だらり、と体の両側に垂らしていた。

エドワードの胸元に視線を向け、

一見、ぼんやりとしているように見えた。

だが、その姿に潜んだ恐しさに、エドワードだけが気付いていた。

まるで隙のないその全身に、エドワードの背に冷や汗が流れる。

少しでも剣先を動かせば、

草加が手にした杖が襲ってくることを予感して、

エドワードは指一本動かせないでいた。

双方固まったままかなりの時間が過ぎ、

野次馬達が固唾を呑んで見守る中、見物していた教授の一人が、

堪りかねて声を上げた。

「そこまで!」

その声に、エドワードがびくりと体を震わせ、

その手からサーベルが音を立てて床へ落ちた。

草加はゆっくりと右手の杖を左手に持ち替え、

床からサーベルを拾い上げて、エドワードに柄を向けて差し出した。

エドワードはそれを受け取りながら、草加を感嘆の表情で眺めた。

「お前、凄いな。やってたのか?」

「フェンシング?いや、俺は初めて見た。」

「え?まさか?」

「俺は、剣術をやってる。子供の頃から。」

「剣術?」

草加は、にっこりと笑うと頷いた。

エドワードの態度が試合前とはまったく違っていることで、

周囲は草加の力量に気付き、目を見張って草加を見つめていた。

教授に杖を返し、丁寧に頭を下げる草加を待ってエドワードは、

その腕を掴んだ。

「剣術ってなんだよ?」

「剣術は剣術だろ?武士なら、当然。」

草加は歩き出しながら、答えた。

「武士?お前、侍なのか?」

エドワードの「サムライ」という言葉に、見物人たちがどよめいた。

「うん。」

腕を掴まれたまま、草加は立ち止まった。

その周りを、生徒達だけでなく教授陣も取り囲んだ。

「・・・凄い、初めて見た。」

「なにが?」

「サムライ。」

エドワードの言葉に、草加は苦笑して再び歩き出した。

「あの刀って、どうやって使うんだ?片刃だろう?」

「見たことあるのか?」

「あるよ。大学の美術館にある。」

え?と振り返る草加に、杖を貸した教授が、答えた。

「見てみるかい?」

結局、草加はその刀の使い方を、

デモンストレーションする羽目になった。

西洋にはない、片刃の武器。

草加は、鞘から太刀を抜きその刃を確認した。

じっと下から上へ視線を走らせる草加の顔を、

エドワードはまるで別人のように感じていた。

「使えるか?」

「ああ、大丈夫のようだね。刃毀れもないし。」

固唾を呑んで、ホールの真ん中でズボンのベルトに

その日本刀を落とし込んだ草加を、大勢が見つめていた。

急拵えの、藁束で木の棒を包んだものを前にして、

草加はゆっくりと腰の刀に左手を添えた。

右手が上がったか、と思うまもなく、ヒュッ、と空気のなる音がして、

草加の右腕が二度、動いた。

シーンと静まり返る中、カン、カン、と床へ木の棒が当たる音がして、

皆の視線がその木切れに向かい、再び彼を捉えた時、

そこには、刀を鞘へ納め、

右手を下げて立っている草加の姿があった。

呆然と口を開けて、皆が草加を眺めた。草加の右腕の動きを、

正確に捉えられたのは、エドワードだけだった。

静まり返るホールの中で、草加だけがいつものように、

笑顔を浮かべていた。

それ以来、エドワードだけではなく、

話を聞いたほかの生徒達のすべてが草加に一目置くようになった。

休日のたびに草加を連れ出し、エドワードとその親友、ロバートは、

何を見るのも初めての草加に、イングランド内を案内してくれながら、

様々な体験をさせてくれた。

二人も草加によって、遠く海の果ての国に興味を持つようになった。

「お前、ほんとはとんでもないヤツだったんだよな。

一番年上なのに、そんな事感じないけど。」

エドワードがそう言って笑った。

「日本って、どんな国なんだ?」

「ん〜〜、そうだなぁ・・・。」

ふ、と口を閉ざした草加の顔に、ロバートがしたり顔で頷いた。

「今、誰かを思い出してただろう?」

「え?!」

草加が顔を上げて頬を染めた。

「なるほど。恋人か?」

「うん。」

「聞かせろよ。お前の想い人。」

軽く溜息をつくと、草加は抱えた膝を芝生に伸ばした。

なかなか口を開こうとしない草加に、

エドワードが焦れて肘でつついた。

「いいじゃないか。減るもんじゃなし。」

「とても・・・美しい人だよ。凛としていて、純粋で。」

草加の脳裏にその姿が浮んだ。思わず頬を緩ませた草加の背を、

二人は両脇から叩いた。

「お前がそんな顔をするんだ。そりゃ、よほどの美人なんだな。」

「そうだよ。とても俺なんか、相手にしてもらえないと思ってた。」

「で、アプローチしたのか?」

「したよ。日本を発つ直前に。」

「え?」

顔を見合わせて、ロバートとエドワードは草加を振り返った。

「日本を発つ前?」

「うん。一度でいいから、って言った。」

「おい、それって・・・。」

ロバートが驚いて草加の顔を見つめた。

「許してくれたのか?」

黙ったままの草加の顔で、二人は相手の返事を察して溜息をついた。

「よく、まぁ・・・。」

「そう。あの人も、俺を好いてくれていたってわかった。

天にも昇るってあのことだね。しかも、俺は次の日、日本を発つのに。

だから、許してくれたのかもしれない。

でも、俺はあの人も俺を求めてくれたんだって思ってる。」

「それ、辛くないか?」

「どうして?」

「どうしてって。だって、日本と英国じゃ、

船でどれくらいかかると思ってんだよ?

危険だし、二度と会えないかもしれないのに。」

「辛くないといえば嘘になるけど。

でも、あの人は俺を待っててくれてる。」

そう言い切る草加を、二人は信じられない、と首を振った。

「会えない間のこと、心配じゃないのか?」

「そうだよ。他の誰かと結婚したりとかさ。」

ぷ、と草加は噴出しそうになって、口元を押さえた。

「大丈夫。あの人は俺以外の男に、許したりはしないから。」

「言い切れるわけか?」

「言い切れるよ。信じてる。」

再び、二人は顔を見合わせて、大きな溜息をついた。

そして、晴れやかな顔で微笑んでいる草加を見つめた。

遠い、気の遠くなるような距離を越えてやって来た、日本人。

どれほどの使命を負ってきたのか、想像もつかないその国で待つ、

草加の恋人。

「羨ましいね。」

「まったくだな。また一つ、負けたよ。」

「だから、それは違うって。」

草加が困ったように笑った。

「何にせよ、無事に帰れよ。」

「ありがとう。必ず、無事に帰るって約束したんだ。

思想や、階級や、そんなもので人が差別されたりすることのない

国にしたいんだ。その為に俺はここに来た。

でも、それもあの人と二人で、生きる為に。」

「階級差別って・・ひょっとして、身分違いってヤツなのか?」

草加は少し口元を歪ませた。

「ん〜〜・・・ま、そうだね。」

「なんだい、その言いにくそうなのは?」

「身分違いだし、国同士敵対してるしね。」

「おい、おい。」

呆れたように、二人は草加に向き直った。

「いい加減、驚かせるのはやめてくれよ。」

「まるで、ロミオとジュリエットだな。」

クラスメイト達の勘違いに、香藤は頬を緩ませた。

「そうだね。でも、俺達は生きるよ。二人で、ずっとね。」

真っ直ぐなその瞳を、二人は眩しげに見返した。




続く




2006年3月31日


本棚へ NEXT