胡蝶の夢 2





初春のある日。

草加は、クラスメイトに誘われ、郊外に出かけた。

遠くから眺めた川沿いが、薄いピンク色に霞んでいた。

「桜?!」

「桜って?」

エドワードが不思議そうに、

満開の木々を振り仰ぐ草加を見つめた。

「これ、桜じゃないのかい?」

「ああ。これはアーモンドだよ。」

「アーモンドって、あの、木の実?」

「そう。お前の言う桜って、チェリーのことかい?」

ロバートも、不思議そうに草加を振り返った。

「チェリーって?」

「実だよ。赤い、小さな果物。」

「知らないな。日本の桜には、実はならないよ。」

「へぇ・・・。」

その木の下に、草加達はランチを広げた。

サンドイッチや、スコーン、クロテッド・クリームに、蜂蜜、

ジャム。紅茶のポットまでが用意されていた。

「豪勢だね。」

草加が、嬉しそうに芝生の上に腰を下ろした。

カップを手に、草加はじっと頭上の花を見上げていた。

その顔が、まるで子供のように輝いている。

「お前、そんなにこの花が気に入ったのか?」

「うん。よく似てるんだ。」

「好きなんだ、その、桜って木が?」

ロバートの言葉に、草加は首をかしげた。

「好きって言うか、日本人には特別って言うか。それに、

俺には特に特別かもしれないな。」

そう言って、はにかんだ草加を二人は肩をすくめて笑った。

「あの人を思い出すんだ。

故郷を思うと、同時にあの人の姿が浮ぶんだ。」

「はい、はい。そう言うだろうと思ったよ。」

エドワードが、わざとらしく溜息をついて見せた。

「顔に書いてあるぞ。」

ロバートがそう言って、草加の頬を軽くつついた。

草加は、頬を染めて苦笑すると、残りのお茶を飲み干した。



ピクニックから帰ってきた草加は、久しぶりに戻って来た

ジェレミーに捕まった。

夕食を共にし、草加がロンドンに馴染み、

友人が増えたことを知って彼は喜び、

草加と葡萄酒を飲みながら、しきりに嬉しそうに頷いた。

「なぁ、トーマ、ずっとロンドンにいる気はないのか?

大学を卒業したら、うちへ就職したらどうだい?

君なら、やっていけるよ。」

その夜も、酒が入ると必ず出る話題を、

ジェレミーは口にした。

「私は、諦めていないぞ。」

「ファーザー、私も賛成!!」

「そうだろう?」

必ず、メアリーがそう言って二人でニコニコと草加を見る。

草加が返事に困って苦笑するのを見て、

そのたびにエマがジェレミーを嗜めた。

「トーマは、国に帰らなきゃならないのよ。

彼には使命があるの。」

「そうは言うがな、」

草加は、そのやり取りをいつも黙って、

微笑んで見つめていた。

切なくなるくらい、嬉しい気持ちと申し訳なさと、そして、

その度に思い出す、懐かしい姿に心が遣る瀬無くなる。

「トーマの成績を見ると、どうしても帰したくなくなるんだ。

スカラーガウンを着る権利なんて、

そうは手に入れられないんだぞ?

どれだけ、トーマが努力をしているかって、証だ。

素晴らしいよ。」

「いや、そんな・・・俺は・・・。」

草加の腕を掴んで離そうとしないジェレミーに、

エマはしょうがないわね、と溜息をついた。

「ダメよ。トーマは日本に恋人を置いてきてるんだから。」

「えっ?!」

その言葉にまず反応したのは、メアリーだった。

慌てて口元を抑えたメアリーを、

ジェレミーがぽかんとして見つめた。

「なるほど。トーマが好きなのか、メアリー?」

頬を染めて黙って俯くメアリーに、ジェレミーは笑った。

「仕方ないな、トーマじゃ。

で、エマの言ったことは事実なのか?

そうじゃなかったら・・・。」

そう言って草加を振り返ったジェレミーは、

悪戯っぽく片眉を上げた。

草加は頬を染めるメアリーに嘆息し、

ジェレミーに申し訳なさそうな顔で頷いた。

「うん。日本に俺を待っててくれてる人がいる。」

「そうか。」

心底残念そうに、ジェレミーはにこりと笑う草加を見返した。

「そうだ、その彼女をこっちへ呼べばいいんだ。」

グラスを、タンッとテーブルに置いて、

ジェレミーが一人で頷いた。

「そうすれば、トーマはここで仕事が出来る。」

「いい加減になさい。」

エマがいい募るジェレミーを、無理矢理寝室へ追いたてた。

戻ってきたエマは、

黙って食事を取る草加の髪を一撫でして、

向かい側に座った。

「ごめんなさいね、トーマ。酔ってるだけだから。」

「ううん、エマ。ジェレミーの気持ちは、とても嬉しいよ。

俺をそんなに受け入れてくれてて。

だから、それに応えられないことが、凄く心苦しい。」

「いいのよ、気にしないの。」

その時、じっと俯いたままだったメアリーが、

ゆっくりと顔を上げた。

「好きな人がいるのね、トーマ。」

「うん、いるよ。」

草加は、はっきりと頷いた。

「・・・そう。」

立ち上がってダイニングを出て行くメアリーの背を、

草加は溜息をついて見送った。

エマが、再び、黙って草加の髪を撫でた。

『気にしないで。』

そう言っているのが、目でわかった。




・・・ふと、気がつくと、草加は窓辺に座っていた。

満月に照らされて、外が思いのほか明るい。

寝よう、と立ち上がりかけて窓の外を見た草加の視界に、

そこに立つ一本の木が入った。

『・・・あれは・・・?』

外套を羽織り、草加は外へ出て走り寄った。

「ああ、あの木だ・・・。」

まるで、桜のような花を咲かせる、アーモンド。

その梢越しに、煌々と冴えた月が浮んでいる。

「この月を、あの人も見ているだろうか。」

さわ、と風が吹いた。

あまり散ることのない、アーモンドの花びらが

草加の視界を遮った。

風に弄られた前髪を掻きあげた草加は、

その木の袂に立つ人影に気付いた。

着流しの、男の姿。

満開の花越しに注ぐ、閑かな月の光がその男を照らした。

「・・・えっ?!・・・」

「草加・・・。」

「秋月さんっ?!」

ゆっくりと秋月が微笑んだ。

「お前のつけた火は、まだ、消えていないぞ・・・。」

「・・・あ・・・。」

草加の耳に懐かしい声が届いた。

弾かれたように、草加は秋月を目指して走った。

「秋月さんっ!秋月さん!」

両手を広げて抱きついてきた草加を、秋月はふわり、

と両腕に抱えた。

「会いたかった・・・これは夢?それとも幻?」

「さぁ、どっちかな。」

クス、と秋月が笑った。

「早く帰りたいよ、秋月さん。」

「馬鹿、お前には使命があるだろう。」

「だって・・・。」

今にも泣き出しそうに顔をゆがめる草加を、

秋月は子供をあやすような顔をして、少し首を振った。

「会いたかった、凄く、会いたかった。」


「ああ、俺もだ、草加。」


アーモンドの木の根方に、草加は秋月を押し倒した。

「・・・草加・・・。」

秋月が、染み入るような微笑を浮かべて草加の首に

腕を回した。

「秋月さん、綺麗だ。」

白い月光を浴びて、秋月は横たわっていた。

見下ろす草加には、まるで、

この世のものとは思えないほど、神々しい姿だった。

「お前も、草加。」

耐え切れなくなって、草加は秋月を抱え込み、

その唇に喰らいついた。

「・・・んっ・・・。」

まるで噛み付くように、何度も、何度も、

角度を変え唇を舐め、舌を絡ませた。

それを秋月は、自ら舌を差し出し、受け止めた。

秋月の漏らす息が上がり、声が漏れる。

「・・・あぁ・・・草加・・・んんっ・・・」

荒い息をついて、草加は秋月を見つめた。

「いい?」

「ああ・・・お前を俺にくれ。」

「秋月さんっ・・・。」

草加の手が、秋月の裾を割った。

いささか強引なその動きを、

秋月は自ら膝を開いて迎え入れた。

「・・・あぁっ・・・」

いきなり握りこまれて、秋月の頤が跳ねた。

そのまま、草加は手を上下させて秋月の茎を扱いた。

「・・・あっ・・・んぅっ・・・」

秋月の腰が揺らいだ。

眉を寄せて仰け反る姿に、草加は余計に余裕をなくした。

「ごめん、秋月さん。俺、もう我慢出来ない・・・。」

肩で息をする草加に、秋月は汗の滲んだ顔で、

ゆっくりと頷いた。

「我慢しなくていい、来い。」

「でも、秋月さんを傷付けちゃうかもしれない・・・。」

潤んだ瞳で目元を染め、

秋月は両脚を開いて草加をその間に挟みこんだ。

草加は、その秋月の痴態に

眩暈がしそうなくらいに、逆上せた。

「いいんだ。俺も、早くお前を感じたい。」

「・・・嬉しいよ。」

泣きそうな顔で見下ろす草加の頬を、

秋月は両手でそっと挟んだ。

「好きだ、草加。」

「秋月さんっ・・・俺も、好きだ!」

ああ、と溜息とともに秋月は頷いた。

秋月の全てを奪い取ろうとするかのように、

草加は唇を重ねた。



「・・・あぁっ・・・」

袷をはだけ、乱れた裾から覗く両脚を草加の腰に絡めて、

秋月は仰け反っていた。

叩きつける草加の着ているシャツの背を、

秋月の両手が握り締める。

「・・・んあっ・・・はっ・・・あぁっ・・・」

眉をしかめ、頬を染めて快感に震える秋月を、

草加は堪らず掻き抱いた。

「秋月さん・・・秋月さっ・・・」

「・・・あっ・・・んっ・・・く・・・草加っ・・・」

離れていた間の思いの丈をぶつけてくる草加を、

秋月は全身で受け止めていた。

大川端で、初めて結ばれたとは思えないほど、

秋月は声を上げ草加に縋り付いていた。

「秋月さん・・・綺麗だ・・・」

揺すられるたびに顔を左右に振り、

秋月は息も絶え絶えに喘いだ。

・・・乱れる姿さえ、この人は美しい。

突き上げながら食い入るように、

見つめる草加の熱い息が、秋月の頬にかかる。

秋月は、首を巡らせて草加を見つめた。

「・・・く・・・くさ・・・かっ・・・もう・・・」

切迫した息の中、秋月が途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「うん・・・」

白い足袋の足首を掴み、

草加は秋月のすらりと伸びた左脚を肩にかけ、

右膝を押さえて拡げると、ぐい、と腰を進めた。

「・・・ぁっんんっ・・・!」

奥深くに、草加は己を穿った。

秋月は草加にしがみついて白濁を飛ばし、

弓形に仰け反った。

「秋月さん・・・っ・・・」

草加は、その秋月の唇を塞ぎ、

抱きしめながら意識を飛ばした。




気がつくと草加は慣れぬベッドから転げ落ち、

床にブランケットに包まって転がっていた。

「・・・あ〜あ・・・」

何度、見ただろう。秋月を抱きしめる夢を。

「あっ・・・つっ・・・。」

また夢か、と嘆息してもそもそと起き上がろうとして、

はち切れそうな股間が、ズキン、と疼いた。

「・・・くっ・・・そっ・・・。」

床に座り込んで、草加は顔をしかめた。

溜息をついて逡巡し、ズボンの中へ手を差し入れた。

「・・・あっ・・・う・・・」

夢の中の秋月の、白い肌が目の前に浮んだ。

「・・・秋月さん・・・秋月さん・・・秋月さんっ・・・。」

ただ一度、合わせた秋月の肌を思い出しながら、

草加は昇りつめた。





「トーマ!大変なことになったぞ!」

ジェレミーが、帰ってくるなりダイニングに駆け込んできた。

エマが息を吸い込んで草加を振り返り、

メアリーは音を立てて椅子から立ち上がった。



「乗船の手配は、私がしよう。」

「ありがとうございます。すみません、何から何まで・・・。」

日本でいよいよ内乱が起き、戦闘状態に突入したと、

ジェレミーのフランスにいる友人から連絡が届いた。

大学の友人達も、ホストファミリーたちも、

草加の行く末を案じ、言葉少なに数日を過ごした。

大学を去る挨拶に来た草加を、

エドワードやロバートをはじめとするクラスメイト達が、

取り囲んだ。

口々に別れを言う彼らに向ける草加の顔が、

普段とは別人のように引き締まっているのを見て、

草加を待つ状況の困難さに、皆は改めて思いを馳せた。

「大丈夫か?顔色、悪いぞ。」

ロバートが、草加の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。

「ああ。ありがとう。俺は大丈夫だよ。」

にこ、と草加は笑った。

「無事で。恋人によろしくな。」

「うん。」

それまで黙っていたエドワードが、口を開いた。

「いつか、きっと俺は日本へ行く。

俺で力になれることがあったら、何でも言ってくれ。

お前と、お前の恋人が幸せに暮らせるように、祈ってる。」

「エドワード・・・。」

「お前が戦場へ戻っていくのは、わかってるが。」

一旦、口を閉ざしてエドワードは草加を見つめた。

「死ぬなよ。」

「ああ、俺は死なない。

あの人も、絶対に、俺が死なせない。」

「忘れるな。約束だぞ。」

草加は、笑顔で頷いた。

「日本に来るって?そっちこそ、忘れるなよ。」

「わかってる。」

エドワードはそう言って、右手を差し出した。

その手を、草加は力いっぱい握り返した。






うるさいくらいに蝉の声が降る、夏のある日。

「こんにちは。」

「はい。」

住職が、寺務所の入口へ現れた。

そこに、若いアッシュ・ブラウンの髪と瞳の

外国人女性が立っていた。

「イギリスからわざわざ、ご苦労様です。」

住職は、庭を案内しながら歩いていく。

彼女、エディスはその東京とは思えない、

静かな木々を見上げながら彼の後に続いた。

「こちらですよ。お二人が眠っているのは。」

「え?」

エディスは、そこに寄り添うように建つ二基の墓石に、

不審げに眉をひそめた。

「お二人のお墓は、どうしてこんなところにあるんですか?」

住職はエディスの言葉に、少し躊躇しながら口を開いた。

「・・・ご存じなかったのですか。

お二人はご一緒に亡くなられたのです。」

住職は、少し言葉を切り、エディスを見つめた。

「心中、という言葉をご存知ですか?」

「それは、つまり、お二人は・・・。」

「ええ。ここで、心中されたのです。

冬の、雪の降る朝だったそうです。」

エディスは、震える手で唇を押さえた。

トーマは、恋人と心中していた。

そのショックに、エディスは呆然と墓石を見つめた。

「・・・どうして?一体、どうして?」




「これを・・・。」

エディスは、寺務所に戻り、

住職に一枚の写真を差し出した。

「ほう・・・これは、草加様ですね。」

「はい。その娘が、私の祖母の祖母なんです。」

「なるほど。草加様の洋行時代の写真、と言う訳ですか。

それで、日本へ?」

「はい。彼のことを知りたくて、いろいろ調べました。」

住職は、優しい顔で彼女を見つめていた。

「あの、どうしてトーマ・・・クサカサンは、心中なんて・・・。」

「そう。草加様がお戻りになられた時、

この国は戦争の真っ只中でした・・・。」

話し始めた住職の言葉が進むうちに、

エディスの顔が強張っていった。



「え?!」

エディスはそう言ったまま、しばらく絶句した。

「ちょっと待ってください。

アキヅキサンって、男性なんですか?」

「ええ、そうです。」

住職は目を見張るエディスに、静かに頷いた。

「秋月様は幕臣、草加様は長州藩士。

いわば、敵同士。

それが徳川幕府が倒れ、明治政府が出来て・・・。」

「そんな・・・。」

エディスが流れる涙を拭おうともせず、

黙って俯いているのを、

優しい顔で見つめながら住職は続けた。

「お互い、心底惚れておられて、

想い合っておられたのに、

時代というのは時として残酷なことをするものです。」



「あの、この写真、ここに置いて行っていいですか?」

住職は、驚いてエディスを見つめた。

「よろしいのですか?お祖母様の形見なのでは?」

「ええ、そうなんですけど、でも、この時のトーマは、

きっとアキヅキサンに、会いたかったと思うんです。

だから・・・。」

「そうですか。」

住職はエディスを見つめ、頷いた。

「わかりました。でしたら、お預かりしましょう。」

「ありがとうございます。」

頭を下げて、顔を上げたエディスの目に、

写真の草加が飛び込んできた。

その顔は、少し微笑んでいるように見えた。



重たい気持ちを残して外へでたエディスは、

それを振り払うように首を振った。

「きっと、二人は今は、一緒にいられて幸せなはず。」

背中のデイバッグを揺すって歩き始めた彼女は、

前から歩いてくる二人の男性に気付いた。

「あ〜、もぉ・・・あづ!あづ!暑いよ〜、岩城さ〜ん!」

茶色の髪の男性が手でパタパタと顔を扇いでいる。

黒髪の方は、苦笑しながら彼を叱っている。

仲の良さそうなその二人に、エディスはふ、と、

草加と秋月を重ねた。

心が晴れたように、エディスは顔を上げて二人と

すれ違った。

「あ、あった、ここだ。ここが空蝉寺だ。いくぞ、香藤。」

「あ、ちょ・・・ねぇ、ちょっと待ってよ〜!」

その声に振り返って、エディスは微笑んだ。

「きっと、あんな感じだったんだろうな、

トーマとアキヅキサンて。

絶対、二人は幸せなんだ、今は。会いに来てよかった。」



エディスは、蝉の鳴き声の中に、

草加の声を聞いたような気がした。



『そうだよ、とってもね・・・。』





〜終〜





2006年3月31日




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