CONJUGAL  LOVE





「こんにちは。」

岩城が、大きな一枚ガラスのドアを開けて入ってきた。

ホテルのような、明るい、贅沢な設えのロビー。

華やかに活けられた花々。

その香りが、広いロビー全体に漂っていた。

その奥のフロントから、受付係の明るい声が聞こえた。

「いらっしゃいませ。」

どこかのクリニックかと思うような制服を着た女性が、

分厚いファイルを抱えて岩城を出迎えた。

「ご予約、承っております。どうぞ、こちらへ。」

「あ、すみません、少し早く着いてしまったんですが。」

にこり、と微笑んで彼女は岩城を見上げた。

「お気になさらないでください、岩城様。」

壁で仕切られた個室に案内され、岩城はソファに座った。

その部屋にも、見事な花が花瓶に活けられて、

部屋の何ヶ所かに置かれていた。

「いい香りだ。」

「ええ。人工の香りよりも、自然な香りの方が落ち着きますから。」

岩城が、サイドテーブルに置いてある花瓶に、そっと顔を近付けた。

その柔らかな微笑を、女性はうっとりと眺めていた。

「では、本日はいかが致しますか?

ご予約のときは、いつものとおり、とのことでしたが?」

「あ、ええ、それでお願いします。」

「では、担当が参りますまで、少々お待ちください。」

女性がファイルをテーブルに置き、部屋を後にした。



「いらっしゃいませ。」

しばらくして、このサロンの店長がにこやかな笑顔で入ってきた。

「お待たせして申し訳ありません。」

「いえ、俺が早く来すぎたので。」

岩城がソファから立ち上がって、軽く会釈を返した。

「いつも思いますが、本当に岩城様は

時間に正確でいらっしゃいますね。どうぞ、お気遣い無く。

それでは、こちらへ。」

店長が、岩城の名が書かれたファイルを手にして、

にっこりと笑った。

衝立を回り込み、岩城が服を脱ぎ始める間に、

店長は細々と準備をしながら客がリラックス出来るように、

当たり障りのない話題を選んで世間話をする。

岩城が衝立から出てきて、下着一枚の姿で、

マッサージベッドの上へ腹ばいに身体を横たえた。

「本日のオイルは、コラーゲンを守るローズマリーと、

老廃物を外に出してくれるジュニパーを配合してあります。」

そのオイルを背に流して、

馴染ませる間にも店長が感嘆の声を上げた。

「相変わらず、お綺麗な肌ですねぇ。」

「そうですか?」

「ええ。初めておいでになられたときも、そう思いましたけど。」

十数年前、岩城は当時の先輩俳優に連れられて、

このサロンを訪れた。

「俺達の仕事ってのは、身体が資本だし、

相手役にも人一倍気をつかえ、

お前もざらついた肌に触るのやだろ?

女優のほうはそんなのに抱かれるの、もっと嫌だよな。」

と言われ、全身のケアを始めたのだ。

そのときに担当してくれたエステティシャンが、今の店長である。

「あの頃から比べても、格段に艶が違いますね。」

話しかけながら、足の裏から始まり、脚の裏側、

ヒップ、背中、肩と、ツボを刺激しながら、マッサージを施していく。

岩城が、軽く溜息交じりの声で返事をした。

「そうですか。そうかな?」

「ええ。」

店長がくすり、とこぼした笑いに、

岩城は組んだ腕に顎を乗せたまま、首をかしげた。

「長年、岩城様のお身体を拝見していますから。

いつ変わったのか、はっきり憶えていますよ。」

「え?そんなに変わったんですか、俺?」

「はい。ご自分でもお分かりのはずですよ、岩城様。」

重ねた手に頬をつけ、眉を寄せて考える岩城に、店長が笑った。

「肌、というのは精神的なものが大きく作用するんです。」

その言葉に、岩城は目を見開いた。

「おわかりでしょ?」

そう言って、にっこりと笑う店長に、岩城は薄っすらと頬を染めた。

「この十年ほど、岩城様の肌は、

以前よりも肌理が細かくなっているんですよ。

それも、年々。さ、上を向いてください。」

岩城がベッドの上で身体を反転させた。

アロマオイルを付けた肌に、

店長の手が足の甲や指から脚の前側、

お腹へと、マッサージを始める。

「そうですか・・・いえ、そうですね。」

「身体の内側からのケア、お食事とかも重要ですが、

精神的なものが大きいんです。

岩城様が、ここへずっといらしてるのは、

今は、香藤様のためでしょう?

って申し上げるのは、野暮でしょうね。」

ころころと笑う店長に、岩城は思わず苦笑した。



「前回、ご予約をキャンセルなさいましたけど、

荒れてはいらっしゃいませんね。」

「あ、そうですか・・・。」

前月、アポを入れていたのが、

前の晩に香藤がつけたキスマークのせいで、

キャンセルしなくてはならなくなったのだ。

店長の、岩城の肌を知り尽くしたマッサージが、

岩城の全身を滑っていく。

いつものことだが、岩城は途中から瞳を閉じて、

ドキリとするような、妖艶な表情を浮かべ溜息をつく。

あまりの気持ちよさに、そのまま、

岩城は吸い込まれるように眠ってしまった。



「・・・岩城様?」

「・・・あ・・・。」

声をかけられて、匂うような色気を漂わせて、

岩城は薄っすらと瞳を開いた。

見慣れているはずのその顔に、店長は毎回驚かされる。

「ああ、すみません。」

「いいえ。では、次回のオイルは、

フランキンセンスをブレンドして、使ってみましょうか?」

「それは?」

岩城は、寝そべったままで店長を見上げた。

「引き締め効果が期待できるんです。

しわとか、たるみの予防や軽減にオススメなんですよ。」

ああ、と岩城は店長に頷いた。

「お任せします。」

「では、ベッドにシートを敷きますので、一旦降りていただけますか?

その間に、下着を取っていただいて、少しお待ちください。」

岩城は、ベッドから降り立ち、部屋の隅にある衝立の向こうに消えた。

それを見送って、店長は密やかに笑った。

以前の岩城は、誰の前でだろうが気にもせずに下着を取り、

素裸になったものだったが、香藤とのことがあった後からは、

岩城はそれを恥じるように陰へ行き、

ロッカーに用意されたガウンを着て出て来るようになった。

その変化を、年上である店長は、いつも可愛いと思っていた。

岩城は、次のケアを待つ間、

ソファで出されたハーブティーを飲みながら、

膝の上に載せた雑誌を見ていた。

ふと、その手が止まった。

捲ったページに、香藤の笑顔の写真。

岩城はインタビューを受けているその記事に、

真剣に目を通し始めた。



「岩城様。」

準備が出来て、店長が声をかけた。

じっと雑誌に視線を落としたまま返事をしない岩城に、

店長はその手元に目を向けた。

くすり、と気付かれないように笑って、店長は再び岩城を呼んだ。

「岩城様、準備が出来ましたので、どうぞ。」

岩城は慌てて、雑誌をテーブルの上に置いた。

ページを開いたままのそれに、店長が笑っていた。

「あ、あの・・・。」

岩城が口を開きかけ、店長が頷いた。

「お持ち帰りになります?」

「は・・・。」

岩城は真っ赤になって言葉につまった。

「どうぞ、こちらへ。」

促されて、岩城は赤い顔のまま肩をすくめるようにして、

ベッド脇へ向かった。

店長に背を向け、そっとガウンを脱いで脇に置かれた籠へ入れ、

シートの敷かれたベッドへ腹ばいになった。

天然のクレイパックを岩城の身体の後ろ側半分に厚めに塗りつけ、

シートで何重か全身を覆う。

店長が、タイマーをセットし、

うつ伏せになった岩城の顔の位置までしゃがんだ。

「それでは、乾くまでお待ちくださいね。眠ってらしてもいいですよ。」

「ええ・・・。」

言われるまでもなく、岩城は半分眠った声で答えた。

スースーと寝息を立てる岩城を、店長は微笑んで見つめ、

ドアを開けた。

それから、何十分か後、戻ってきた店長が岩城を起こし、

今度は身体の前面にパックを施していく。

再び、店長が出て行ったあと、

シートに包まれて岩城は天井を見上げた。

言われた言葉が、蘇ってくる。

『ここへずっといらしてるのは、今は、香藤様のためでしょう?』

決して、揶揄するわけではない店長の、笑顔の言葉。

誰が見ているわけでもないのに、岩城は恥ずかしげに頬を染めた。


確かに、そうだろうな。

香藤は俺の年など気にもしていないだろうが。

俺も、気にはしていないつもりではいても、どうしても引っかかる。

このままの身体でいられるわけはない。

いつまで、香藤は俺を抱けるだろう。

だからと言ってそのためだけの努力ってわけじゃない、

と、自分に言い訳する。

いや・・・嘘だな。

いつまでだって、香藤に求められたいと思ってるんだ。

・・・素直じゃない。

いつも香藤が言うように。


思いを巡らせている内に、岩城は再び眠りに落ちていった。


身体についたクレイをシャワーで落とし、下着とズボンを身に着けて、

店長にいざなわれて、岩城は周期的に行っている、

もうひとつのケアのために部屋を移った。

ほぼ、十年前。

岩城はそれまで肌の手入れはしていたが、

それ以外のことには勧められても、まったく興味を示さなかった。

それがある日、岩城のほうから思いもかけない依頼が、

店長がマッサージをしている最中にあった。

しどろもどろで、身体をきれいにするには、

どうしたらいいかと問う岩城に、

「十分お綺麗ですよ?このままのコースでよろしいのでは?」

と言う店長に、岩城はそれ以上を口にすることが出来ずに、

困ったように俯いた。

その顔を見て、店長が何かに気付いたように、頷き、微笑んでくれた。

「そうですね。では、無駄毛のお手入れでもなさってみますか?」

顔を上げた岩城は、その笑顔を見てほっとしたのだ。

「お仕事にも、必要でしょうしね。」

部屋を移った岩城は、ベッドの上に身体を横たえた。

片腕を上げて、スタンバイする。

「あと数回で今回分は、終了になります。」

「あ、そうですか?」

頷いて、店長は処理を始めた。

「そろそろレーザー、お使いになる気はございませんか?」

店長にそう言われて、岩城は困った顔を向けた。

「まだ、決められませんか?」

店長が笑っている。

「ええ、ちょっと・・・。」

「でも、今の方法だと痛みがありますでしょ?

レーザーはその点はさほどではございませんよ?」

「そう、なんですが・・・。」

「それに、あちらの方が半永久的に持ちますから、

回数も格段と減りますし。」

迷っていることがありありとわかる顔で、

岩城は天井を見上げていた。

「試してみようと思われたら、いつでも仰ってくださいね。」

「あ、はい。ありがとうございます。」

「今日は、フェイシャルはどうなさいます?」

「あ、すみません、それは次回にします。」

「はい、かしこまりました。」

仕度を整えて、ロビーに戻ってきた岩城は、

店長に待っていて欲しいと言われてソファに座っていた。

そこへ、スーツ姿の男性が入ってきた。

片手に、厚めのアタッシュケースを持った彼は、

にこやかに笑ってカウンターへ向かった。

「こんにちは。いつもお世話になっております。」

受付の女性と言葉を交わしていると、

店長が手に紙包みを持って現れた。

「あら、こんにちは。」

「店長、いつもありがとうございます。」

ちょっと待ってて、と言われて彼は、笑顔で頷いた。

店長の行く先を見て、彼は驚いて目を見開いた。

少し慌てて、カウンターを振り返ると、受付係がにっこりと笑い返した。

「彼、岩城京介さんですよね?」

「ええ、そうです。」

「こちらにいらしてるんですね。」

「はい。うちの上得意様です。」

「これを、岩城様。」

「・・・え?」

岩城が店長が差し出した紙包みを受け取りながら、首をかしげた。

「雑誌です、先ほどの。」

「あ・・・。」

そう言われて岩城は、薄っすらと頬を染めた。

「あの、いいんですか、頂いても?」

「はい、どうぞお持ちください。」

「あ・・・ありがとうございます。」

恥ずかしげな顔で立ち上がると、岩城はカウンターへ向かった。

「次回のご予約は、いかがなさいますか?

本日お取りになれますか?」

「えっと・・・すみません。まだ、予定がわからなくて。」

「はい。畏まりました。では、お電話お待ちしております。」

スーツ姿の男が、まじまじと岩城の顔を見つめていた。

その視線に、とっくに気付いていた岩城は、ふと顔を彼に向けた。

「あっ・・・すみません!」

男が慌てて頭を下げた。

「不躾に見つめてしまって、申し訳ありません。」

「いえ、構いませんよ。」

岩城がにっこりと笑い、男は邪魔にならないように隅に控えた。

クス、と店長が笑いながら受付の女性に、

後の棚にあるトレイに乗せた商品をカウンターの上にと促した。

「ご注文の品は、こちらでしたね?」

銀のトレイに乗せられていたのは、岩城がこのサロンで購入している、

薬用のエッセンシャルローションと、ジェル、洗顔ソープ。

商品を確かめて頷く岩城に、

店長は商品を保冷バッグに入れて渡した。

「次回のご予約、お待ちしております。」

にこやかな笑顔に送り出されて、岩城は店を後にした。

岩城が去るのを待っていたように、男が口を開いた。

「岩城さん、うちの商品、使ってくださってたんですか?」

「ええ、そうですよ。あの商品が発売されてからずっとです。」

「そうなんですか?!ずっと?!」

畳み掛けるように言って、男はカウンターに手をついた。

「はい。お勧めしたら、気に入っていただいて。」

店長の、にこやかな笑みを見て、

男は嬉しそうに岩城の出て行ったドアを振り返った。

「綺麗ですねぇ、岩城さんって。驚きましたよ。」

「そうでしょう?」

「ええ。テレビで見ていてもそう思ってましたけど、

実物はもっと綺麗だ。」

男の言葉に、受付の女性と店長がそろって頷いた。









    続く







2006年3月14日
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