Much Ado About Nothing 1








レースが終わり、奇跡ともいえる7連覇を成し遂げて、

香藤洋二はチッピング・カムデンの自宅へ戻ってきた。

家のメンテナンスの関係で、

ロビンとアビーには帰宅日を伝えていた為、

戻ってきた二人は、村人達にもみくちゃになるほど歓迎された。

それから数日経って、

ようやく彼らの生活は以前の落ち着きを取り戻した。

「岩城さん、昼ご飯、なにが食べたい?」

「昼ご飯?」

「今日、アビーはお休みだから、俺が作るからさ。」

「ああ、そうか。」

その時、玄関の呼び鈴がなった。

「食べたいもの、考えといて。」

そう言いながら、香藤は玄関へ向かった。

「はい、」

と言いながら、ドアを開けた香藤は、

目の前に人がおらず、目をぱちくりとさせた。

ふ、と気配を感じて、視線を落とした香藤は、

彼を見上げる男の子と目が合った。

香藤のへその高さくらいの背丈の、

茶色の髪に、深い緑色の瞳のその男の子は、

香藤を見上げて瞳を輝かせた。

「こ、こにちわ!ズィント ズィ マイン ファーター?」

「・・・は?」

子供の口から出た知らない言語に、

香藤は彼を見下ろしたまま、身動きを止めた。

リビングにいた岩城は、なかなか戻ってこない香藤に、

ソファから立ち上がった。

玄関ロビーへ出て、

ドアを開けたまま固まっている香藤に、岩城が声をかけた。

「おい、どうしたんだ?」

「岩城さん、言葉がわかんない。」

「え・・・?」

「イッヒ ハーベ アイネン ブーフシュターベ フォン マイナー ムッター」

「は?」

驚いたように見つめる岩城に、男の子がにっこりと笑って、

背中に背負ったリュックサックを降ろして玄関先にしゃがみ、

その中をがさがさと探って、白い封筒を差し出した。

「ヒーア ズィント ズィー」

「あ、ああ、」

岩城がそれを受け取り、封筒の表書きを見て、

香藤にそれを渡した。

「お前宛だ。」

「俺?」

受け取った香藤は、不審気に表書きにある自分の名前を眺め、

その中に入っていた手紙を、首を傾げながら取り出した。

「読めるか?」

「あ、うん。手紙は英語だよ。」

読み進むうちに、香藤の顔が、

まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔に変わった。

「うっそー・・・。」

「なにがだ?」

「この子・・・俺の子だって・・・。」

しばらく香藤の顔を見ていた岩城は、

立ち上がってリュックを背負いなおし、

見上げて待っていた男の子の前に、膝を折って座った。

『君の名前は?』

「へっ?!岩城さん、この子の言葉わかるの?」

「この子が話してるのは、ドイツ語だ。」

「ドイツ語ーーー?」

『僕、ニキ。』

『そう。ニキっていうんだ。』

にっこりと笑うその男の子の顔を見つめて、

岩城は香藤を見上げた。

「・・・この子の名前は、ニキ、だそうだ。

どう見ても、お前の子だな。」

絶句したまま、香藤は自分そっくりの顔の、ニキを見下ろした。

当のニキは、岩城を不思議そうな顔で見ていた。

『おじちゃん、誰?』

そう言われて、岩城は苦笑しながら答えた。

『おじちゃんは、京介、っていうんだ。洋二の友達だよ。』

『ここに住んでるの?』

『そうだよ。』

立ち上がって、ニキに中に入るように促す岩城に、

香藤が剥れた顔を向けた。

「ねぇ、岩城さん、フロイントって、友達ってことだよね?」

「なんだ、わかるのか?」

「聞いて気付いた。

あのさぁ、俺達、友達なわけ?

それはないんじゃないの?」

ぽん、と香藤の頭を叩いて、岩城は笑った。

「そう言うしかないだろ。」

「・・・そうだけど。」






「で、その手紙には、なんて書いてあるんだ?」

「あー、その、昔、付き合ったことのある女からで・・・」

「つまり、この子の母親ってわけだな。」

「うん・・・まぁ・・・。」

リビングのソファにちんまりと座って、

ニキはミルクティーがなみなみと入ったマグカップを両手に持ち、

フーフーと息を吹きかけながら飲んでいた。

それを目の前にしながら、クッションを抱えて、

まだ香藤は呆然としたまま座っていた。

「それで?」

「え・・・と・・・」

口篭る香藤に、岩城は呆れて首を振った。

「あのな、言いにくいのかもしれないが、

昔のことで俺が怒るとでも思ってるのか?」

「そうじゃない、けど・・・怒られたことあるし。」

「それも昔の話だろう。いいから、話せ。」

テーブルの上に放り出していた手紙を取り上げて、

香藤はその文面を最初からなぞった。

なかなか口を開かない香藤に、岩城は手を差し出した。

「俺が読んでよければ、読むが?」

「うん・・・。」

その手紙は、十年と少し前につきあっていた、

オーストリア人のアニカ・シュナイダーからのものだった。

彼女は香藤にはまったく知らせず、子供を産んだこと。

その子の名前が、ニキ、であること。

現在、十歳であること。

「ニキ、ねぇ・・・。」

「ニキ・ラウダから取ったって、まるわかりだな。」

岩城がそう言って、香藤を見返した。

「まぁ、俺、彼のこと好きだって言ってたし。」

その先を読み進んで、岩城の顔が強張った。

「お前、ここ読んだのか?」

「どこ?」

「ここからだ。」

岩城がそう言って手紙を指差した。

そこには、ニキが香藤のところへ来た理由が書いてあった。

「結婚するから、子供を引き取れ・・・って、なにこれ?!」

「・・・腹が立つな。」

「ほんとだよ!なんで・・・。」

「それでも母親か。」

「俺が、へっ・・・?」

怒りの矛先が、双方で違うことがわかって、二人は顔を見合わせた。

「香藤、お前、なにを言いかけた?」

「え・・・だって、」

「可哀想だとは思わないのか?」

「いや、思うけど、さ。」

ばつの悪そうな顔をして、香藤は口を尖らせた。

「だって、どうすんのさ?」

「どうするもこうするも、放り出すわけにいかないだろ?」

「そうだけど、」

そう言って、ちらりとニキを見ると、

カップに口を付けながら、見返してくるきらきらした瞳に、

香藤は思わずたじろいだ。

「岩城さん、なんか、すごい満面の笑みなんですが、この子。」

それを聞いて、ふぅ、と息をはいて、岩城はニキに話しかけた。

『ニキ、洋二のこと、ムッターから聞いてるか?』

『うん。僕のファーターだって!』

ニキは、そう言って、嬉しげに顔を輝かせた。

その笑顔に頷いて、岩城は香藤を振り返った。

「ニキは、彼女からお前が父親だと言われてるそうだぞ。」

「あ、は、そうなの。」

顔面全開のニキの笑みに、

香藤が顔を引き攣らせながら笑った。

「この年頃の男の子にとっては、F1ドライバーは、

ヒーロー中のヒーローだ。

しかも香藤洋二は、みんなの憧れのスーパースターだからな。

それが自分の父親って言われたら、こういう顔になるだろ。」

「・・・そうだろうけどー・・・本人にしてみたら、結構きついよ?」

「なにが?」

「だって、突然あなたの子供です、なんて言われてもさー。」

「心当たり、あるんだろ?」

「あるから、余計なこと言えないんだってば。」

腕を組んで、香藤は眉間に皺を寄せたまま、岩城を見つめた。

「岩城さん、育てられないよ、俺達じゃ。

学校だって行かないといけない年だし。

いまは俺達オフで家にいるけど、

年明けたら俺はテストとかでいなくなるし、岩城さんもでしょ?

それにシーズン始まったら、あちこち点々とするんだよ?」

「そうだが、」

お互いに考え込んで、しばらく無言が続いた。

「とりあえず、今必要なのは、ベッドだな。」

岩城がそう言って、向かい側のソファに視線を向けた。

ニキが、両手でリュックサックを抱え、

いつのまにか丸くなって眠っていた。

「疲れたんだろう。

オーストリアから来たんじゃ、チッピング・カムデンは遠い。」

「一体、誰が連れてきたんだろう。

ドア開けた時は、この子だけだったんだよ。」

「連れて来て、後は勝手にしろか。

無責任な大人ばかりだな、まったく。」

岩城がそう言いながら立ち上がった。

眠っているニキを抱き上げると、岩城は香藤に頷いた。

「二階の角部屋、空いてるな。」

「うーん。一応、シングルベッド、置いてあるよねぇ・・・。」

「わかってるなら、」

了解、と返事をして香藤は岩城の後に続いた。

部屋に入ると香藤はベッドを整え、

その上にニキを降ろしながら、

岩城は眠りこけた彼の顔を眺めた。

「見ればみるほど、お前にそっくりだな。」

そう言ってくすり、と笑う岩城に、香藤は苦笑して頭をかいた。

「否定する余地なし・・・って?」

「そうだろ?」

見上げられて、香藤は肩を竦めた。

「子供には罪はないぞ、香藤?」

「うん。」






「子供ーー?!」

アビーが、キッチンで朝食作りの最中の包丁を持ったまま、叫んだ。

「危ないよ、アビー。」

「ああ、ごめんなさい。でも、ほんとなの、ヨウジ?」

「たぶん。」

「たぶん、って・・・。」

「顔みれば、わかるよ。」

岩城が、お茶の入ったカップに口を付けながら、答えた。

「顔みれば、って、そっくりなの?」

「ああ、誰が見ても親子だ。」

「そんなに?」

頷く岩城に、アビーは、複雑そうな顔を香藤に向けた。

「ずいぶんだわ。」

「そうなんだよねぇ。」

「そうじゃなくて。キョウスケ、よく平気な顔してられるわね?」

香藤の言葉を足下に否定して、アビーは岩城を見つめた。

苦笑いを浮かべる香藤を横目に、岩城は平静としたまま答えた。

「昔のことだしね。」

「昔のことって言うけど、大丈夫なの?」

「なにが?」

「その子の母親が、いきなり現れないって保証はないでしょ?」

「・・・それはどうだろうね。結婚するって話だから。」

「はぁ?!」

アビーがいよいよ呆れて叫んだ。

「なにそれ?!結婚するから、

子供が邪魔になったから、置いてったわけ?!最低!」

「アビー、声が大きいよ。」

「うるさいわね、ほっといて。声が大きいのは元からよ。」

ダン、とアビーは手にした包丁でまな板を叩いた。

「うわ・・・こわ・・・。」

「アビー、本当に危ないよ。」

顔を引き攣らせる香藤に苦笑しながら、岩城はアビーを嗜めた。

「ああ、ごめんなさい。」

包丁を置いて、アビーはエプロンで手を拭った。

「冷静ね、キョウスケ。それにしたって、他人事じゃないと思うけど?」

「他人事、ね。」

「この先、その女がなにを言ってくるか、わからないでしょ?

育てた分の生活費寄越せとか、また引き取るから返せ、とか。

それによっては、あなたの家庭が壊れることだってあるわよ?」

「そうだよね。」

「そうかな。」

「あれ?」

香藤が、首を傾げて岩城を見返した。

「岩城さんは、そうは思わないんだ?」

「ああ・・・なんというか、彼女は一人でニキを育ててきたけど、

十年の間、一度も香藤に連絡を取ってきていないだろう?

強請るわけでも、お金を欲しがるわけでもなかった。

ニキも、素直に育ってるようだし。

今になって彼を寄越したのには、

よほど理由があるんじゃないか、と思ったんだ。」

「昨日は怒ってたのに。」

「まぁ、いきなりだったからな。」

岩城の言うことにも一理ある、と、香藤とアビーは、

顔を見合わせ、沈黙した。

アビーが、少し肩を竦めて、香藤を見つめた。

「・・・で、どうするの?」

「うん、それなんだけど・・・あのさぁ、岩城さん。」

「なんだ?」

「どこか、全寮制の学校とか、探そうよ。」

「なんだって?」

岩城が、眉を顰めて香藤を見返した。

「だって、俺達、年明けたら滅茶苦茶忙しくなるし。

あの子の面倒なんて、見られないよ?」

「・・・母親に置いていかれて、

それでもこれからは父親といられると思ってたあの子を、

また一人にするのか?」

「そ・・・それは、さ・・・。」

香藤が口を開きかけた時、二階からニキの叫び声が聞こえてきた。

「きゃーーーい!」

「えっ?なに?」

三人は慌てて立ち上がり、彼の寝ていた部屋へ飛び込んだ。

その彼らの心配をよそに、

ニキはベッドの上で、アクセルに顔を舐め回されて笑い転げていた。




「おはよう。」

アビーが、ダイニングのテーブルに付いたニキに、にっこりと笑った。

ニキは、目をぱちくりとさせて、隣に座る岩城を見上げた。

『おはよう、って言ってるんだ。彼女は、アビー、だよ。』

『アビー?』

『そうだ。』

ニキは、アビーに視線を向けると、考えるように首を傾げた。

それから、ぱっと顔を輝かせて、にっこりと笑った。

「おはよ、ごじゃいましゅ!」

途端に、アビーが声を上げて笑い、

ニキの髪をくしゃくしゃと撫でた。

「よく出来ました。朝ごはん、食べようね。」

言われて見上げるニキの髪を、岩城も撫でながら頷いた。

『朝ご飯食べようって言ってるんだ。』

『うん!お腹空いた!』

香藤はそのやり取りを、黙って眺めていた。

きらきらとした、楽しげな自分そっくりの笑顔を向けられて、

香藤はあいまいに笑った。

「香藤、もうちょっと、何とかならないのか、その顔。」

「え?」

「仏頂面に近いぞ。ニキが気にするから。」

香藤は苦笑して頭をかいた。

「ごめん。」

そう言って、ふっと息を吐いた。

『ファーター、どうしたのかな?』

ニキが不安気に岩城を見上げた。

『心配はいらないよ。』

うん、と頷くニキの肩を、岩城は軽く叩いた。

『さあ、いっぱい食べろよ。』

目の前に出て来た、

初めてみるフル・イングリッシュ・ブレックファーストに、

ニキは顔中に笑みを浮かべた。

がし、とフォークを掴んだニキを、岩城が止めた。

『日本には、食事の時の挨拶があるんだ。』

『なんて言うの?』

『いただきます、って言うんだよ。』

ニキは、岩城を見つめて大きく頷いた。

「イタ、ダキマ、シ!」







     続く




     弓




   2008年4月5日
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