Much Ado About Nothing 18






「まったく・・・。」

荒い息の合間に岩城が嘆息をついた。

それに気付いて、香藤はその色付いたままの顔を覗き込んだ。

「これで、以前はレース前にはセックスしなかっただなんて、

信じられないな。」

「えー、ホントだよ。岩城さんだって知ってるじゃん。」

「そうだけどな。」

「前は、全然そんな気にならなかったもん。でも、今はさー。」

そう言葉を継ぎながら、香藤は岩城の身体に手を延ばした。

「岩城さんだからさ、」

「なにが、だから俺だからなんだ?」

くすくすと笑いながら、抱き込む香藤に呆れながら、

岩城はその肩に顎を乗せた。

「なんかね、岩城さんの中にいると、安心すんの。

それで、力が湧くっていうかさぁ、」

「・・・これ以上、元気にならなくてもいい。」

首筋に、岩城の溜息を感じて、香藤は声を上げて笑った。

「大丈夫!今日の予選で使うから。

で、その前にもう一回だけ、いい?」

「お前の、だけ、っていうのは、

当てにならない、って何度も言ったな。」

「うーん。これに限っては、そうかも・・・いてっ!」

噛まれた耳を押さえて、香藤はえへへ、と笑った。








「おかえり。」

ピットに戻ってきた二人を吉澄が笑って迎えた。

他のピットクルー達も、

岩城の潤んだ瞳から目を逸らしながら、苦笑を浮かべていた。

「もうすぐ始まるよ。」

「はーい。」

返事をして、レンーシングスーツに着替えた香藤は、

ピットレーンへ出ると、空を見上げた。

それに気付いた観客達が歓声を上げ、

香藤は漣のように揺れるスタンドに向かって、手を振った。



岩城は、ピットの奥に置かれている椅子に

ニキと並んで座っていた。

そこへ、ミケーレが両手にジュースとミネラルウォーターの

ペットボトルを持ってやってくると、

二人にそれを渡しながら岩城の隣に座った。

「グラーツェ、ミケーレ。」

「いや、いいんだけどね、」

「どうした?」

「去年のチームメイトは、大変だっただろうな。」

「え?」

自覚なく小首を傾げる岩城に、ミケーレは肩を竦めた。

「日本人はストイックだって聞いていたけど、

ヨウジは違うみたいだな。」

「は?」

「なんだかね、」

噛み合わない会話に大きく息を吐いて、

ミケーレはピットレーンで陽を浴びながら、

ファンに手を振る香藤の背を一瞬見つめ、

肘掛に両手をついて立ち上がった。

「ニキが羨ましいねぇ・・・。」

きょとんとしたままの岩城を置いて、

ミケーレは香藤の隣へ向かった。

「ねぇ、ねぇ、どうして、ぼくがうらやましいのかな?」

「さあ・・・?」




「よ。」

「調子、どう?」

ピットレーンに出たミケーレは、

近付いてきたネルソンに手を上げた。

「いいぜー。そっちは?」

「いいよー。」

「だろうな。そういう顔だ。」

へラリ、と笑って香藤はネルソンの肩を叩いた。

相変わらずの光景を、カメラマン達が狙う。

香藤とネルソンが、ミケーレを間に挟んでカメラに収まった。







予選第二日目が始まり、順当にタイムが出始め、

再び前日と同じく熱いバトルが繰り返された。

香藤とネルソンに加え、それにフェルナンドと

ミケーレが続いた。

アナウンサーが、それを煽るように喚き声を上げ、

モナコの青空に響いていた。

『ミケーレ、二番レコード!』

「ひゅー、やるねぇ。」

呑気なネルソンの声に、ウォーレンが笑った。

車椅子を動かし、ネルソンの乗るマシーンに近寄ると、

身体を少し前に倒すようにしてネルソンへ向いた。

「余裕だな、ネルソン。」

「まぁね。ミケーレは腕はあるから、

いずれは上に来るだろうと思ってたし。

ま、一回くらいは良い思いさせてやってもいいぜ。」

声を上げてウォーレンが笑った。

マクガバンのピットでは、

インカムを通して皆にミケーレの雄叫びが届いていた。

「いいんじゃない。」

香藤がにっこりと頷き、インカムを外した。

「楽しいな、こういう予選は。」

マクガバンが嬉しげに呟き、

メカニック達がそれに同意するように笑った。

「ヨウジもだろう?」

「そりゃあね。競い合う相手がいると楽しいし、

勝つと余計に楽しいよね。」

そこへ、ネルソンがコンマ2秒タイムを縮めたと、

アナウンスが流れた。

香藤は笑顔でそれを聞くと、マクガバンにウィンクした。

「ね、楽しいよね。」

「そうだな。」

「じゃ、行くよー!」

メカニックに両手を広げて、香藤が叫んだ。

「縮んだ分、拡げてあげようかな。」

「意地が悪いな。」

「あれ、そう?」

予定調和の会話を交わして、香藤はマシンに乗り込んだ。








順調に走っていた香藤のマシンは、

モナコの海岸線に沿って進んでいた。

第15、16コーナーにあたる、プールサイドシケインは、

海岸沿いにあるホテルのプールの外周を

ぐるりと回る形を取るクランクで、

内側はタイヤバリア、外側は海である。

その先には、仮設のスタンドがあり、

狭いわりにスピードが出て難しい。

そして、このサーキットの中で、

数少ない抜き所の一つでもあり、

毎年このコーナーのタイヤバリアに、

コースアウトしたマシンがつっ込む姿が良く見られた。

今も、そのコーナー手前で、

下位チームの2台が競り合いを演じていた。

スポンサーの見守る中、

少しでもいいところを見せようと頑張っている。

「頑張るのはいいけど、スピード出しすぎだよなぁ。」

マクガバンのピットで、メカニックが顔を顰めた。

「ヨウジがもうすぐ後につくぜ。」

「うーん・・・まずいな。」

ぽつり、と誰かが呟いた。

観客達もはらはらとして、競り合う2台と、

後から近付いてくる香藤のマシンを見つめた。

そして、張り合っていた2台が、

ほんの少しでも先へ行こうと競い、コーナーの途中で、

マシンのノーズが一瞬、触れた。

途端に、物凄い勢いで弾かれたマシンの1台は、

プール側のタイヤバリアにつっ込んで止まった。

残るもう1台は、コース上でタイヤから煙を上げ、

何度もスピンした。

ドライバーは、ぶれた体勢を立て直そうとして奮闘していた。

そこへ、香藤のマシンが迫った。

「う、わっ!」

「まずい、ヨウジ!」

騒然とするピットのモニターに、

衝突を避けようとして

ステアリングホイールを切った香藤のマシンが、

外側のガードレールと、

並べてあったタイヤバリアを乗り越える場面が映った。

「やばい!」

香藤のマシンは、そのまま青い空へ飛び、

その向こうの海へ派手な水音としぶきを上げてダイブした



つんざく悲鳴と、怒号、喧騒の中、

「ねぇ、ダディは?ダディは?」

今にも泣きそうな顔で、服の裾を握り締めるニキに、

岩城はその前にしゃがみ、両手で肩を掴んだ。

「大丈夫だ。心配はいらない。

香藤は、こんなことで死ぬような奴じゃない。」

「で、でも・・・。」

そこへ、サーキット・ドクターであるワトキンスを乗せた

ドクター・カーが、マクガバンピットの前に来て止まった。

「キョウスケ、どうする?!」

「乗せてくれ!」

ワトキンスの声に、岩城は立ち上がり頷いた。

「キョウスケ、僕も行く!僕も!」

「だめだ。ニキは、ここで待ってろ。」

「やだー!うー。」

口を尖らせるニキに、

岩城は車のドアに手をかけたまま、頭を撫でた。

「大丈夫だ。だから、待ってろ。ジェームズ、ニキを頼む。」

岩城は、そのまま車に乗り込み、

マクガバンは、尖った口のまま、

顔中を涙でぐちゃぐちゃになったニキを抱え上げた。

「さすが、落ち着いてるな、キョウスケは。」

誰もがそう思って、走り去るドクター・カーを見送った。





現場に岩城を乗せたドクター・カーが到着すると、

別方向から来た車もほぼ同時に停まった。

F1開催時に配置される、ダイバーを乗せた車だ。

ワトキンスが降り、ダイバーと話を始めたその脇を、

岩城が通り過ぎた。

「おい、キョウスケ、どこに行く?」

きょとんとした顔で岩城が振り返った。

「どこって、香藤を向かえに。」

「・・・は?」

唖然とするワトキンス達を尻目に、

岩城はガードレールに近付いた。

「ま、待て、キョウスケ?!」

「なぜ?」

「なにワケのわからないことを言ってるんだ?」

「なにって?」

こと此処に至ってやっと、

ワトキンスは岩城がパニックに陥っていることに気付いた。

「落ち着いていると見えたのは、混乱しすぎてたせいだな。」

「なにが?」

「いいか、キョウスケ、あそこは海だ。

ダイバーが行くから、君はここにいるんだ。」

岩城の腕を掴んで、

言い聞かせるようにゆっくりとワトキンスが言った。

その二人を横目で見るようにして、

ダイバー達が海に飛び込んだ。

それを見つめていた観客たちが、

徐々に静まり返っていった。



大騒ぎのパドックとは正反対に、

沈黙していた観客席から、

悲鳴のような歓声が起こった。

一斉に皆が振り返った大型モニターに、

沈んだはずの香藤が、

海面に顔を出しているのが映っていた。

まるで、海水浴にでも来たかのように、

ぴゅー、っと口から水を吐きだした。

「なんて奴・・・。」

ピットに流れたメカニックのぼやきに、

皆が苦笑を浮かべた。

その香藤の周囲に、ダイバーが数人泳ぎより、

身振りで何か伝えた。

モニターに、香藤がそれに頷き、

岸へ向かって泳ぎ出すのが映し出された。

岸に到着し、コースマーシャルたちに、

コースの上に引き上げられた香藤は、

脇にあったタイヤを二つ重ねた上に、腰を下ろした。

「香藤!」

「岩城さーん!」

飛びついてきた岩城を抱きとめて、香藤はにっこりと笑った。

「怪我は?」

「無いと思うよ。どっこも痛くないし。」

その笑顔を黙って見つめていた岩城の顔が、

くしゃ、と歪んだ。

「ごめんね、心配させて。」

「・・・無事なら、いい。」

真っ青な顔色をした岩城の身体に、ぎゅ、と腕を回、

香藤はそのままキスをしかけた。

その二人に、ワトキンスが軽く咳払いをした。

「あー、邪魔して悪いけど、あとにしてくれないかな。

診察しないと帰れないんだよ、私は。」

「あ、ごめん。俺より、

あっちの二人の方が怪我してると思うよ。」

すでに、転がったマシーンから、引っ張り出されて、

診察を受けている二人のドライバーを指さし、

香藤は心配げに眉を寄せた。

「ヨウジは、どこもなんとも無いのか?」

「ちょっと、海水を飲んだくらいかな?」

「まぁいい。とにかく来てくれ。

そのまま帰すわけにはいかないんでね。」




怪我人を搬送するために、

新たに到着した救急車に乗って、

医務室へ香藤達が到着すると、

マクガバンとニキとネルソンがすでに待機していた。

「だでぃ!だでぃ!だでぃ!」

飛びついてきたニキを抱きとめて、

香藤は泣き出した彼の背を撫でた。

「なんでお前がいんの?」

呑気に首を傾げる香藤の頭に、

ネルソンの容赦ない手が飛んだ。

「いって!」

「もう一回、殴ってもいいけど?」

「冗談だっての!」

香藤はそう言って笑うと、右手を差し出した。

ネルソンは、その手をがっちりと掴むと、にやり、と笑った。

「まぁ、いい。無事みたいだしな。」

「うん。念のための検査に来ただけだから。」



「それにしても参ったよ。びっくりしたー。」

香藤がレーシング・スーツから腕を抜きながら、

けらけらと笑った。

「咄嗟に、シートベルト外してさぁ、

ヘルメット脱いだんだけど。」

「まったく、言葉も無いね。

こっちは心臓が止まりそうになったよ。」

マクガバンの嘆息に皆が頷き、香藤も肩をすくめた。

「あのヘルメット、もう使えないよねぇ。」

「おま・・・」

「マシンは?マシンはいいのかよ?!」

「あのなぁ、香藤、」

「へ?」

岩城が、真っ赤な目をしたまま、呆れて首を振った。

それを見ていたネルソンが、肩を震わせて笑い出した。

「ほんと、馬鹿。」

「だって、気に入ってたんだよ、あれ。」

「いや、そうじゃないだろ、馬鹿。」

「そう馬鹿、馬鹿、言うなよ。」

「馬鹿じゃないもん、ダディ、馬鹿じゃないもん!」

それを聞いていたニキが、ネルソンの袖を掴んで、

声を上げた。

「あー、違うって、ニキ。そういう意味じゃなくてさ、」

「ダディ、格好いいもん!」

「そうだけど、」

笑う皆に、ニキは顔を真っ赤にした。

むぅ、と口を尖らせて黙りこんでいたニキが、

しばらくして、顔を上げた。

「僕、大きくなったらダディみたいになる!F1走る!」

「へ?」

「まじで?」

皆が振り返り、見つめる中、ニキは涙目のまま、

キッ、とネルソンを見上げた。

「なるもん!絶対、なるもん!」

「待て、ニキ。」

岩城が膝を折ってニキの顔を覗き込んだ。

「本気か?」

「本気だもん!」

「俺は、反対だ。冗談じゃないぞ、こんな危険なこと。」

「はあ?!」

唖然として岩城を見つめた香藤は、

慌てて座っていた診察台から降りた。

「ちょっと待ってよ、岩城さん。

危険なことって、俺はいいわけ?」

「お前はいい。知り合ったときにF1ドライバーだったんだ、

でも、ニキは違う。」

少し据わった目付きで見返す岩城に、

香藤は膨れっ面を向けた。

「なんで?!それって、すっごい納得できないんだけど?!」

「あのな、お前ら・・・。」

言い合いをはじめた二人を、

止めようとして声をかけたネルソンは、

すっかりと無視された格好に、マクガバンを振り返った。

「まぁ、私も息子がなるって言ったら、反対するかもなぁ。」

そう言って肩をすくめて、マクガバンはニキに視線を向けた。

「えっと、」

「どうする、ニキ?

まずは、キョウスケの許可を取らないと

いけないみたいだぞ?」

「うー。」

さっきとは違う膨れ方で、ニキは岩城と香藤に走りよった。

「ねぇ、どうしてだめなの?」

「だめなものは駄目だ。危ないからな。」

「えー!」

「俺は、余計な心配ばかりするのは、ごめんだぞ。

香藤だけならともかく、ニキもだなんて、冗談じゃない。」

呆れる周囲をよそに、

3人の言い合いは平行線のままえんえんと続いた。

「駄目だ。何回言わせる。」

「だから、岩城さん、それ、理不尽!」

「僕、絶対、走るもん!」










     終わり





     弓




   2012年2月11日















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