Much Ado About Nothing 17









予選のタイムが表示されるモニターを見つめながら、

ネルソンは舌打ちを漏らした。

「いったい、どうなってんだ!?」

それは彼だけではなく、

他チーム全員の正直な感想だった。

前回までのグランプリでは、

大した成果を出せていなかった香藤が、

このモナコグランプリでは人が違ったように、

最速タイムを記録していた。

まだ予選一日目のだというのに、

他の誰かが彼を上回るタイムを出すと、

即座にコースへ飛びだし、再び一位を取り戻す、

ということを、すでに二回繰り返していた。

「くそっ!」

ネルソンは無意識に声を漏らし、マシーンに乗り込んだ。

「出るから、ピットレーン、見てくれ!」

「はい!」

メカニックの返事に頷いて、

ネルソンはヘルメットのバイザーを音高く下した。





「えへへー。」

たった今、再び予選一位を取り戻した香藤が、

ヘルメットを脱いで岩城に笑顔を向けた。

その顔に、岩城は思わず吹き出した。

「なにさー?」

「いや、良い顔だと思っただけだ。」

「ほんとー?」

疑わしげな香藤の髪を、岩城はくすくすと笑いながら掻き回した。

「ダディ!」

「おう!どうだった、ニキ?」

「うん!ダディ、かっこいい!」

「そーだろ、そーだろ。」

満面の笑みを浮かべて、香藤はニキを抱き上げた。

その香藤へ、吉澄が声をかけた。

「ネルソンが、出るみたいだよ。」

チーム全員が、ピットに置かれたモニターを見つめた。

ウォーレンのエンジン音が轟き、

マクガバンチームの前のピットレーンを、

ネルソンの乗ったマシーンが、

甲高い音と共に駆け抜けて行った。

「うひゃー。」

「なーんか、気合入ってるねー。」

吉澄がそう言って肩を竦めた。

「大丈夫かな・・・。」

ニキがぽつり、と零した。

「なにが?」

「ダディ、抜かれない?」

不安そうなニキに、香藤は白い歯を見せた。

「大丈夫だって!もし、抜かれたら、また抜き返すから!」

香藤の全身から、自信に満ち溢れた空気が

発散されているように見え、ピットクルー達の表情も明るかった。

それを眺めていたジェームズ・マクガバンが、苦笑を漏らした。

「なんだい?」

「なんだ、じゃ無いよ、キョウスケ。

どう見ても、キョウスケ効果だろう、これは。」

「そうか?」

不思議そうに首を傾げる岩城を横目でみて、

ジェームズは肩を竦めた。

「そうだった。君はそういう男だったな。」

「そういう、って言われても、わからないが。」

「・・・ヨウジと一緒になって、磨きがかかってるな。」

そこへ、ウォオ!というどよめきと、大きな拍手が起きた。

アナウンスの声が、

ネルソンが香藤を抜いて一位になったと喚いている。

抱えられていたニキが、香藤を振り仰ぐと、

ポンポン、とその手を叩いて、彼を床に下した。

「心配すんな。」

にこり、と笑った香藤の顔が、す、と凪いだ。

コキ、と首を一度鳴らすと、

香藤はゆっくりと、マシーンに向かった。






サーキット中が、異様な興奮に包まれていた。

香藤が、ネルソンのタイムを上回ることが出来るかどうか、

皆が固唾を呑んで見守っている。

盛り上がりをみせているウォーレンチームのピットに、

グランドスタンドが揺れるざわめきと、歓声が聞こえた。

「ヨージ・カトウが、コースへ入りました!」

アナウンスが叫び、各ピットがそれに注目した。

一周目は、慣らし走行で、タイムは、二周目、

スタートラインを通過した時点から計測される。

香藤のマシーンが、

一周目の最終コーナーを立ち上がって来るのが見えた。

「うげ・・・。」

ネルソンが思わず顔を顰めるようなトップスピードで、

香藤の乗ったマシーンは、スタートラインを通過した。

他のチームのマシーンに邪魔されることもなく、

と言うよりは、他のドライバーさえ、そのタイムに期待して見えるほど、

香藤にコースを譲り、順調すぎるスピードで香藤はコースを走った。

途中の、モナコ名物のトンネルを、

カーン、という高く美しい音を響かせ、マシーンが駆けた。

「すっごいなー。」

吉澄が、呑気な声を上げた。

皆の呆れた視線を受けて、彼は目じりを下げて笑った。

「タイム、出るよ。」

「あっさり言うなぁ。」

「当然でしょ。」

そう答えて吉澄は、シャツの胸元を握り締めて、

モニターを見上げているニキの脇にしゃがんだ。

「ダディは、世界一だよ。」

「うん!」

「大丈夫。」

「うん!」

岩城が、緊張し切っているニキの髪を、ゆっくりと撫でた。

「・・・ほんとに、一番になれる?」

「ああ、なるさ。香藤だからな。」

アナウンスの喚く声が掻き消えるような

観客のざわめきがコースを伝わってくる。

香藤のマシーンが、最終コーナーに近付いてきている。

皆が口を噤み、その時を固唾を呑んで待ち、

姿を見せた香藤のマシーンが、グランドスタンド前を駆け抜けた。

一瞬の沈黙のあと、電光掲示板が瞬き、

サーキットが波のように揺れ、

興奮しきったアナウンスが流れた。

その数秒後、予選第一日目の終了を告げるフラッグが振られた。






「コースレコードです!

ヨウジ・カトウ本人が持っていた去年までの、

このモナコのコースレコードを、コンマ三秒も上回る、

とんでもない記録が出ました!」

「あー、そうかよ!」

アナウンスにネルソンが、喚くように返事をして、

ガリガリと頭を掻き回した。

「まぁ、フロントロウなら、狙えるだろう。」

「・・・まぁね。」

ウォーレンの穏かな声に、ネルソンは肩を竦めた。






「ほんと、腹立つよなー。」

「はいはい。」

パドックのカフェで、ネルソンが大きな声で喚いた。

「だから、天才ってキライなんだよ。」

「はいはい。」

と、頷いた香藤は、

となりに座って笑っている岩城を振り返った。

「岩城さん、キライだって言われちゃったよー。」

「ああ、そうだな。」

「あー!むかつく!」

一声叫んで、ネルソンは香藤の両頬を指で摘んで引っ張った。

「イデッ・・・あに、すっだよ!」

「うるせー!」

「やめろって!いってぇなぁ、もう。」

「文句たれんな!見てろよ、明日。」

香藤を睨んで、ネルソンは目の前のカップに残った、

冷めたコーヒーを飲み干した。

「コーヒー、おかわりくれるー?!」

その二人を眺めながら笑っていた岩城が、言った。

「ネルソンも天才だよ。」

言われたネルソンは、

目を見開いて岩城を見返すと、肩を竦めた。

「まーさ、自信が無きゃやってられないけどな。

でも、こいつはムカつく。」

「いいじゃん、楽しいんだから。」

「それがムカつくっての!」

そう言って笑う香藤を半目で睨んだ。

「明日も、ダディが勝つよね?」

「おう、任しとけって。」

「・・・やな、家族。」

ぽつり、とこぼしたネルソンに、周囲は必死で笑いをこらえた。






予選二日目。

午前中のテスト走行が始まる頃には、

客席はぎっしりと人で埋まり、要所要所に設置された、

巨大なモニターにF1マシンが映し出されると、

大きな歓声が上がった。

「皆、期待してるよね。」

その騒ぎをピットで見ていた吉澄が、

下がった目尻を一層下げて香藤を見つめた。

「まーねー。」

香藤の呑気な返事に、

今年チームメイトになったミケーレが、肩を竦めていた。

「なに?」

「いや、なんて言うか・・・。」

「言っちゃえばいいのに。」

「キヨタカ、勘弁してくれ。」

「なんで?」

香藤がきょとん、とした顔でミケーレを見上げた。

「一応、新人としては言い辛いこともあるんだよ。

チームメイトは、ヨージ・カトウだし。」

「いやー、F1ドライバーになったからには、

図太いところも無いとねー。」

「図太い、ねぇ・・・。」

「そーそー。図々しいとことか。必要だよー。」

ミケーレが困った顔をすると、吉澄が笑い出した。

「それって、結構難しいんだよね。

っていうか、それを香藤君に言われてもね。」

吉澄に、ポンポンと肩を叩かれて、

ミケーレは苦笑を浮かべて頷いた。

「まぁ、ヨージとチームメイトになって、良かったかな。

色々勉強になるしね。」

「優等生な返事だなぁ。」

香藤がケラケラと笑った。

「いや、それは本当だよ。

タイムアタックにしたって、駆け引きだからね。

傍にいるから、直に見られることが一杯ある。」

「確かに、盗めるものは、色々あるな。」

そう岩城の声がして、香藤達は振り返った。

「あ、岩城さーん。どこ行ってたのさ。」

「ニキと買い物だ。アビー達に、土産を買ってきた。」

「そっか。」

「ダディ、これから走るの?」

「そうだよ。」

「今日も、一番だよね?」

「あったりまえ!ポールポジション、取るからな。」

「うん!」

目一杯明るい顔で頷くニキの髪をぐしゃり、

と撫でてから、香藤は岩城の手を引っ張った。

「どこいくのー?」

「ちょっと、トランスポーターに。ニキ、ここで待ってろ。」

「はーい。」

と、返事を返したニキを、吉澄が宥めるようにピットへ迎えた。






「言っとくが、」

「えー?」

誰もいないトランスポーターへ入り、

ドアを閉めた途端に先手を打たれて、香藤は口を尖らせた。

「えー、じゃない。こんなところでやる気か?」

「だめ?どうしても、だめ?」

じっと見つめてくる香藤の顔が、

眉が下がってみえて、岩城はそれを暫く見つめ返した。

「そんなにしたいのか?」

「うん。したい。」

実に素直な返事に、大きな溜息をついて、

岩城は立ち上がった。

「あ、ちょっ・・・岩城さんってば!」

止めようとした香藤は、ドアの鍵を閉めて戻ってきた岩城を、

立ち上がって抱き閉めた。

「あはは〜。」

「こら、待て。」

「ヤーダよ、待てない。待ちたくない。」

「あー、もう、わかった、わかった。」

へら、と顔を綻ばせる香藤に、岩城は呆れたように笑った。

「まったく、しょうがない奴だな。」







   続く




   弓




  2010年3月6日
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