捻じれたサーキット 1







F1グランプリ。

世界最高峰のカーレース。

1チーム、たった2台のレーシングカーのために、

数百人から数千人のスタッフが働き、

何十億円という研究開発費用が注ぎこまれる。

世界十数か国を転戦し、毎戦十数万人の観客を動員し、

数億人の人々がテレビ等で視聴する。

その各地を回るさまは「F1サーカス」と異名をとる。







雲ひとつなく晴れ上がった暑い日の昼下がり。

香藤洋二は、長い前髪が爽やかなそよ風に煽られて、

顔にかかるのを掻き揚げようともせず、

コース脇の芝生に座り込んでいた。

レーシング・グローブをはめたままの手で、

金色のヘルメットを、

まるで握り潰そうとでもしているかのように両手で掴み、

その両手は瘧のように震え続け、

時折、激しい震えが全身を走った。

ひっくり返る寸前に、奇跡的に香藤が放り出されたマシーンは、

メインスタンド前のストレートとピットレーンを仕切る壁を乗り越え、

こともあろうに香藤の所属するマクガバン・レーシング・チームのピットに、

腹を見せて横たわっていた。

まだ車輪が廻ったままのそのマシーンは、煙は立ち上ってはいたが、

すでに消火器の泡に包まれ、辛うじて爆発を免れていた。

最初に香藤に走りよった岩城京介は、彼が自分のマシーンではなく、

100メートルほど先のコース上を呆然と見つめていることに気付いた。

そこには、イザク・ジェニングが、白い炎を上げて燃え上がる

フォーミュラ・ワン・レーシング・カーの中で、荼毘に付されていた。

スタンドを埋めている何万もの観客は、

身じろぎをするのも忘れたように静まり返えり、その炎を見つめていた。

何人ものコース・マーシャルが必死になってレースの中止を知らせると、

F1マシーンのエンジンが次々に切られ、

最後の一台のエンジン音も消えていった。

場内のスピーカーも沈黙し、

救急車がジェニングのマシーンから離れて止まった。

耐火服に身を包んだ救助隊員は、何とかして近付こうとしてはいたが、

激しく燃え盛る炎に翻弄され、

その努力はその場に救急車が必要がないのと同じように、

空しいものだった。

ジェニングは、助けられるような状態ではなく、

希望はすでに失われていた。

岩城は燃えているマシーンから視線を外すと、

傍らに蹲る香藤を見下ろした。

金色のヘルメットを掴む香藤の手は、震え続けていた。

岩城はその肩にそっと手をのばすと、優しく揺り動かした。

香藤はまったくの無反応で、

その顔と震えている手が、かすり傷の為に血だらけだった。

「怪我は?」

岩城は囁くように声をかけた。

香藤はマシーンから放り出された時、何回かもんどりうっていた。

もそもそと身体を動かすと、彼は岩城を見上げゆっくりと首を振った。

そのまま悪夢から覚めかけてでもいるかのように、

首を振りながら両腕で抱えた膝に顔を埋めた。

二人の救急隊員が担架を抱えて慌てて駆け寄ってきたが、

香藤はそれを手を振って追い払った。

F1ドライバーとしては背が高いほうの香藤と、

ほぼ同じくらいの背丈のある岩城が、

呆然としたままの香藤を立ち上がらせ、

二人はマクガバン・チームのピットへ歩き出した。

マクガバンが、消火器を手にしたまま、ピットの入口で二人を出迎えた。

マクガバン・チームのオーナーであり、

マネージャーも兼ねているジェームズ・マクガバンは、

50代半ばででっぷりと太り、

黒に灰色の混じった髪が印象的な男だった。

マクガバンの後では、チーフメカニックのジャンセンと、

メカニックのランドルフ兄弟が燻り続けている香藤のマシーンを、

まだ何とかしようと立ち働いていた。

マクガバンは香藤の腕を取ると、

ピットの奥に置いてあるポータブルバーまで引っ張っていった。

ピット内での作業は喉が乾くため、メカニックたちが飲むビールや

ミネラルウォーターやジュースなどが冷蔵庫につまっている。

それ以外にも、5回たてつづけに、

グランプリレースで優勝するという偉業を成し遂げた男に、

6回目の勝利もチームにもたらしてくれるかも知れない、

と期待するのは、さほど不当なことではなかったので、

そのためのシャンパンも2本用意されていた。

香藤は、バーの扉を開けると、

冷蔵庫を無視してブランデーの瓶を取り上げ、

タンブラーを半ば満たしたが、

瓶の口が縁に当たってカタカタと音を立てた。

タンブラーに入るよりも、地面に零れた方が多かったが、

香藤はそれには目もくれず、グラスを持ち上げた。

片手では震えてどうにもならず、

両手で挟み込むと、口元へもっていった。

それも歯にグラスが当たり、なんとか一部は喉へ流し込んだが、

大部分は顎を伝わって真っ白いレーシングスーツの胸元を汚した。

香藤はグラスを掴んだまま、ベンチに座り込み、また、瓶に手を伸ばした。

香藤はレーサーになってから、3度の大きな事故にあったが、

2年前の事故の時には危うく命を落としかけるほどの大怪我をした。

激しい苦痛にも関わらず、

ロンドンへ戻る為の救急用のヘリの担架に横たわったまま、

微笑を浮かべ右の二の腕が骨折で動かなかったので、

左手の親指を立てて見せた時にも、

その手は微動だにしていなかった。

しかし、マクガバンと岩城が愕然としたのは、

彼がブランデーを煽っている、ということで、

勝利を祝うシャンパンでさえ、軽く口をつけるだけの香藤は、

これまで強い酒を口にしたことがなかったのだ。




レーサーを続けていれば、誰もがいずれ神経をすり減らしてしまうのだ、

というのがマクガバンの持論だった。

どんなに冷静であろうと勇敢であろうと、

有り余る才能があろうとも、それがレーサー、

とりわけF1ドライバーを待ち受けている運命であり、

その氷のような冷静さと、

コントロールが完璧であればあるほど、脆いものなのだ。

肉体的にも、精神的にも最高の状態で引退したグランプリドライバーも、

ほんの僅かだがいたし、少なくともマクガバンの言葉を、

そのまま鵜呑みにするわけにはいかなかったが、

事故を起こしたり、神経的にも精神的にも、

参ってしまった一流ドライバーがいる、

ということもひろく知られていたし、

げんに、現在出場しているグランプリドライバーの中にも、

勝とうという気力を失ってしまい、

二度と勝利の栄冠は得られないことを知りながら、

誇りまで失ってしまったことを悟られたくないがために、

ただマシーンを走らせているだけのレーサーがいる、

ということもよく知られていた。

が、レースの世界では絶対に行われないことがいくつかあり、

その一つが神経をすり減らしてしまった、

というだけのことでそのレーサーを

グランプリ出場選手名簿から外す、ということだった。

だが、マクガバンの言うことが当たっている、というのは哀しいことだが、

今、ベンチに背を丸めて座り、

震えているドライバーの姿からも明らかだった。

その能力を自ら否定し、究極的な敗北を認めざるをえなくなって、

惨めな思いをする前に、

その自らの能力の絶頂を超え、耐えられる限界に達して、

さらにそれを超えてしまった男がいるとすれば、

それはまさに、香藤洋二だった。

その日の午後までは、明らかにグランプリサーキットのヒーローであり、

当代きっての傑出したドライバーと言われ、

グランプリ始まって以来の天才、

という声も次第に高まってきていたのだ。

前年度のワールドチャンピオンシップをその手中に収め、

まだ、レースが半分も残っている本年度のチャンピオンもまず、

彼のものとしか考えられなかったのだが、

香藤の意思と神経は脆くも崩れ、

快復は不可能であるように誰の目にも見えただろう。

イザク・ジェニングの黒焦げになった姿が、

死ぬまで香藤の脳裏から消えないだろうことは、

マクガバンと岩城にはわかっていた。

見る目をもったものが見れば、

いずれこういうことになる兆候はすでに現れていた。

今シーズン第2戦のレースで、優秀な腕をもっていた義理の弟が、

コースの外へ押し出され、時速200キロを越すスピードで

立ち木に激突してそのマシーンが、

3分の1まで縮まってしまったのを知らずに、

さすが香藤洋二と思わせるような悠々たる勝ち方をして以来、

その兆候は現れていたのだ。

元々は明るく、誰にでも分け隔てのない笑顔を向ける、

そんな男であったのだが、次第に自分の殻に閉じこもりがちになり、

口数も少なくなって微笑を浮かべることはあってもそれは、

なおざり、としか言いようのないものだった。

本来は、冷徹なほどの計算をし、常に冷静なレース運びをし、

安全、というものをもっとも意識している男だったが、

それも徐々に薄れて、逆にヨーロッパを転戦するにつれて、

着実にラップレコードを更新し続けた。

しかし、記録を破り続け、次々と優勝をさらうとともに、香藤自身と、

彼とともに出場してる仲間たちの危険も増大していった。

香藤のレース運びが強引になり、危険を伴うようになって、

皆一流の選ばれたタフなプロたちであったが、

香藤を恐れるようになり、

普通ならば先を争ってコーナーへ突っ込んでいくところを、

ライトブルーの香藤のマシーンがバックミラーに見えると、

スピードを落とすようになった。

とは言うものの、まず先頭に立ち、

そのまま逃げ切るのが香藤の必勝スタイルだったので、

彼が後から追いすがる、などということは、ごく稀なことだったが。

今では、香藤のそのレース運びは、自殺行為とまで言われていた。

彼の戦っている相手はライバルではなく、

彼自身であるとはっきり言う人が増えていった。

次第に磨り減っていく神経に対する、

ぎりぎりの抵抗の行き着く先は一つしかなく、

ついにその運もつき、イザクの運も尽きて、

香藤は大勢の観客の見守る前で、

最後の戦いに敗れたのだ。

グランプリドライバーはレース中、

最高で時速300キロ以上という速度の中で

数千回のシフトチェンジを行い、

他ドライバーとのバトルを切り抜けて上位を目指す。

常人では考えられない体力と集中力、そして気力が求められる。

その世界にふたたび戻り、それに耐え抜けることが出来るのか、

それをはっきりと知っているのは、

誰よりも香藤洋二自身だということは、

間違いないように思われた。




香藤はまた、ブランデーに手を伸ばした。

すでに3度目だったが、その手は相変わらず震えていた。

瓶の中身は半分ほど減っていたが、

手も口も思うようには動かなかったので、

香藤の喉に流し込まれたのはほんの一部だった。

マクガバンは岩城に厳しい視線を投げかけると、

そのがっしりとした肩をすくめ、ピットの方へ向かった。

岩城はバケツの水にスポンジを浸すと、

香藤の顔の汚れを流しにかかった。

香藤は無視されようが、

顔を洗われようが一向に気にもしていないようだった。

その香藤をピットのドアを出たところに、

一人の人物が立って、見つめていた。

マクガバンの息子、エディは、

普段は人好きのする明るい少年なのだが、

今やその顔は暗く沈んでいた。

その顔に浮かんでいるのは、何年も、いや、たった数分前まで、

香藤を崇拝してきた16歳の少年が浮かべるなどとは、

とても思えないほどの、憎悪だった。




公式な事故原因の調査は、その後すぐに行われたが、

予想通り、その惨事のすべての責任を負うべきものとして、

一人の人物をも告発することは出来なかった。

メインスタンドの観客が、すべての責任は香藤洋二にある、

と決め付けていただろうと思えるのに、過去17ヶ月の間に、

11回の勝利を収めた香藤は世界でもっとも優秀なドライバーであり、

その世界最高のドライバーを告発するようなことは、誰もしないのだ。




この悲劇的な出来事は不可抗力によるものとして片付けられた。






          続く





        2005年9月3日
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