捻じれたサーキット 2







フランス。

クレルモン・フェラン・サーキットに詰め掛けた観客たちは、

かなり興奮し、感情を昂ぶらせていた。

査問会の後、香藤が首をうな垂れて、

チームのピットへ歩いていくと、

観客達はその背中に向かって、

盛大に罵声を浴びせはじめた。

その罵声と怒号は脅威を感じさせ、

険悪な空気をはらんでいた。

それは暴動のような状態に陥りかねない、

と思わせるものだったので、

いざという時必要な保護を与えられるように、

警官がすぐ傍まで近付き、香藤を囲んで歩き出した。

だが、警官たちもその任務を楽しんでおらず、

彼らが、同胞たちと同じ感情を抱いていることは、

香藤のほうを見ようともしないことと、

その顔に浮かんだ表情からも明らかだった。

香藤から何歩か遅れ、岩城とマクガバンに挟まれて、

警官や観客と、

同じ考えを抱いているもう一人の人物が歩いていた。

香藤とまったく同じレーシングスーツに身を包んで、

ヘルメットのストラップを苛立たしげに振り回しているのは、

マクガバン・レーシング・チームのナンバー2ドライバー、

ザッキオだった。

ザッキオは、かなりのハンサムだったが、大部分の人、

特にレーサーたち仲間を頭のたりないガキどもと見下していた。

そういう男だったので、彼の交際範囲はごく限られていた。

ザッキオにとって、さらに腹立たしかったのは、

優秀なドライバーと自負してはいたものの、

僅かながら香藤に差をつけられているということが、

自分でわかっているということだった。

どんなに長い間必死になろうとも、

その差は埋められないことが歴然としていることも、

これまでに彼はいやというほど自覚させられていた。

ザッキオは、声を潜めようともせず、マクガバンに話しかけたが、

この観衆の怒号の中では、

香藤に聞こえるとはまず考えられなかった。

「不可抗力だって?!」

その声に、信じがたいという響きが混じっていた。

「呆れたよ!

あの馬鹿どもがなんていったか、聞いてましたか?!

不可抗力って言ったんですよ?!

僕に言わせりゃ、謀殺だ!」

「いや、それは違うよ。」

マクガバンは、溜息をついた。

「一番悪く言っても、故殺だ。

それに、故殺でさえないんだ。

マシーンが言うこと聞かなくなったために、

何人ものドライバーが死んでいったことは、

君もよく知ってるだろう?」

「言うことを聞かない?言うことを聞かない?」

ザッキオは、彼らしくもなく言葉を失って、空を振り仰いだ。

「なにを言ってるんです?

みんな、記録の為のビデオを見たんですよ?

奴は、ブレーキから足を離して、

イザクの前に飛び出していったんだ。

不可抗力か!そうでしょうよ。

奴は去年のチャンピオンだし、17ヶ月で、11回も勝ったんだ。

今年だってチャンピオンでしょう。

だから、あれでも不可抗力ってことになっちゃうんですよ!」

「どういう意味なんだ?」

「どういう意味かくらい、わかってるでしょう?

奴を出場させないくらいなら、

うちのチームなんて出ない方がいいんだ。

何しろ、奴はチャンピオンなんですからね!」

「ヨウジは、君の友達だと思ってたがね。」

「そうですよ、確かに友達です。

でもね、イザクも友達だったんですよ。」

かえす言葉がなかったので、マクバガンは黙っていた。

ザッキオも、言いたいことは言いつくしたように、黙り込んだ。

4人は、チーム・ピットに辿り着いた。

香藤は誰にも目を向けず、

声も掛けずに奥の小さな建物に向かった。

ジャンセンと、その助手のメカニックたちもそこにいたのだが、

誰も声を掛けようともせず、

香藤を止めようともしなかった。

ジャンセンは、香藤を完全に無視して、マクガバンに近付いた。

その道にかけては天才的、という評判のチーフ・メカニックは、

やせて背が高く、

顔には深い皺が刻まれていた。

「ヨウジは白なんでしょう、もちろん?」

「もちろん?」

「そこまで言わないとわからないんですか?

ヨウジを黒と決め付けたら、

このスポーツは十年前に戻っちまうんですよ?

そうじゃないんですか、マクガバンさん?」

マクガバンはそれには答えず、

考え込んだような顔でジャンセンを見返していた。

ふと視線をそらすと、

相変わらずしかめっ面をしているザッキオをちらりと見て、

すでに元通りに起こしてある、

ひしゃげたマシーンに近づいていった。

そして、ゆっくりとそれを調べていたが、

コックピットに屈みこむと何の抵抗もなく回る

ステアリングホイールを廻してみてから身体を起こした。

「やれやれ、わけがわからん。」

ジャンセンは冷ややかな視線を、マクガバンに向けた。

「このマシーンを整備したのは、私なんですよ?」

黙ったまま、マクガバンは肩をすくめた。

「わかってるよ、ジャンセン。わかってるんだ。

君がこの道では最高の腕の持ち主だってことは。

さらに、君ほどのベテランが、

愚にもつかないことを言わないってこともね。」

ジャンセンが口元をゆがめるのを見ながら、

マクガバンはマシーンを見つめ口を開いた。

「で、どれくらいかかる?」

「今すぐに、ですか?」

「そうだ。」

「4時間。」

ジャンセンは腹を立てていることがわかるような声で、

そっけなく答えた。

「長くても、6時間。」

マクガバンは頷くと岩城の腕を取り、立ち去りかけて躊躇した。

エディとザッキオが建物の中の香藤と、

ブランデーの瓶を睨みつけて、

なにやら言葉を交わしている。

その話の内容は容易に想像できた。

マクガバンは岩城の腕に手をかけたまま立ち去っていき、

ふたたび溜息を漏らした。

「今日は、ヨウジのやつ、あんまり友達が出来ないようだな。」

「そんなことはもうずっと前からだよ。

また仲良くなれない人物が現れたようだね。」

「やれやれ。」

マクガバンは溜息を漏らすのが癖になりかけているようだった。

「確かに、ヴィリは何か含むところがありそうだな。」

スカイブルーのレーシング・スーツを着て、

大股にピットを歩いてくる人物は、

確かにそんな顔つきだった。

ヴィリは背が高く見事な金髪で、

オーストリア人なのだが、外見は北欧人のようだった。

カリナ・チームのドライバーとしてナンバー・ワンの地位を占め、

常に見事なレース運びを見せていた。

いずれ、香藤の後を継ぐことになる、

ということは誰の目にも明らかだった。

ザッキオのように、ヴィリも冷たく、

めったに他人に心を開くことがなかった。

その友人や親しい人はごく少数に限られていた。

サーキットでは、お互いにあくまでも、

相手に食い下がっていくライバルである、

ザッキオとヴィリが、勝負を離れたところでは親友であることは、

別に不思議でもなんでもなかった。

口元を、引き結び、

冷ややかな淡いブルーの瞳をぎらつかせたヴィリが、

ひどく腹を立てているのは明らかで、

マクガバンの巨体がその前に立ちはだかっても、

彼の怒りは収まらないようだった。

ヴィリは、仕方なく立ち止まった。

彼は歯を食いしばったまま、マクガバンを見上げた。

「そこをどくんだ。」

「なんだって?」

マクガバンが、驚いて目を向けると、ヴィリは一瞬言葉につまった。

「失礼しました、マクガバンさん。

あのどうしようもないカトウの奴はどこにいるんです?」

「ほっといてやってくれ。今、参ってるんだ。」

「イザクは参ってないって言うんですか?

カトウが何様だか知らないし、

知りたくもないが、なんであんなきちがい野郎を、

のさばらして置かなきゃならないんです?

我々はみんな、わかってるんですよ?

奴は今日、俺を2度もコースから押し出したんですからね。

イザクみたいに、焼け死んでたかもしれないんですよ?

言っときますがね、グランプリ・ドライバー協会の会議を開いて、

奴を締め出してやりますからね。」

「君がそういうことをするのは、まずいんじゃないかな、ヴィリ。」

マクガバンは両手を彼の肩に置いて、じっと見つめた。

「君がヨウジを告発するのは、どうにもまずいと思うんだよ。

ヨウジが消えたら、次にチャンピオンになるのは、誰なんだ?」

ヴィリは、マクガバンを凝視した。

その顔からいくらか怒りの色が消え、

ヴィリはあっけにとられてマクガバンを見返していた。

やっと喋り始めたときには、その声から力が消え、

低く、呟きのように変わっていた。

「そんなことのために、

奴を追い出そうとしていると思ってるんですか?」

「いや。ヴィリ、そうは思っていないよ。

ただ、ほとんどの人がそう思うだろうと言ってるんだ。」

長い沈黙が続き、

ヴィリのなかでくすぶっていた怒りも消えたように、

彼は穏やかに口を開いた。

「奴は人殺しなんですよ。きっと、また殺しますからね。」

静かにヴィリはマクガバンの手を肩から外すと、

彼に背を向けてピットから出て行った。

岩城は、心配そうにヴィリが出て行くのを見守っていた。

「ヴィリの言う通りかもしれないよ、ジェームズ。

確かに香藤は5回たてつづけに優勝したけど、

スペインのレースで義弟が死んで以来・・・わかるだろう?」

「5回優勝したってのに、神経が磨り減ったとでも言うのか?」

「何が磨り減ったのかは知らないよ。

本当にわからないんだ。わかってるのは、

もっとも安全に気を配っていたドライバーが、

ほかのレーサーたちが怯えきるほど、

向こう見ずで、危険なレーサーになってしまったということだけなんだ。

なんなら死に急いでいると言ってもいいくらいだ。

道路の通行権は香藤のものになってしまったんだよ。

香藤と張り合うくらいなら、生きながらえようっていうわけだよ。

香藤が勝ち続けているのはそのためなんだ。」

マクガバンは岩城をじっと見つめ、不安そうに首を振った。

この世界の専門家として定評があるのは、

岩城ではなくマクガバンだったが、

マクガバンは岩城とその見解を何よりも高く買っていた。

岩城は非常に鋭く、頭がよくて、腕のある男だった。

職業はジャーナリストで、政治情勢を分析し解説していたのだが、

この世の中には政治ほどつまらないものはない、

という、どうにも反撥しようのない理由で、

スポーツライターに転向したのだ。

政界で、一目も二目も置かれる元となった鋭い洞察力と、

並外れた観察眼と、

分析能力のおかげで世界各地を転戦するのも簡単だったし、

成功を収めることもできた。

イギリスの全国紙一紙と、

イギリスとアメリカの自動車雑誌各1誌の定期寄稿家として、

また、フリーの寄稿家として膨大な量の原稿を書いていたが、

岩城は世界でもほんの何人かしかいない、真に傑出した

自動車レース専門のジャーナリストの一人に、

あっという間にのし上がった。

2年ちょっとの間に、そういうことを成し遂げるというのは、

並大抵のことではなかった。

実際、岩城はあまりにも華々しい成功を収めたので、かなりの数、

彼ほど才能に恵まれない同業者のあからさまな怒り、

とまでは言わないが嫉妬と反感をかきたてることになった。

岩城が入り浸りと言ってもいいほど、

マクガバン・チームに密着していることも、

それに拍車をかけた。

フリーのジャーナリストで、

そういうことをした者がこれまでいなかったので、

そういった行為が現実に行われてしまうと、

岩城の同業者たちは前例がない、と言い出した。

そして、公平に偏見をまじえずに書くのが、

岩城の務めであるといって噛み付き、

岩城がそれこそ自分のしていることだと筋道を立て、

反論の余地がないほど的確に指摘しても、

彼らの腹の虫は納まらなかった。

いうまでもなく、同業者を本当に悩ませていたのは、

当時、グランプリの中でぐんぐん頭角を現し、

最も活気が溢れていたマクガバン・チームを取材するのに

岩城が有利な地位を占めていた、ということだった。

岩城はチームについても書いたが、

主として香藤について書いた裏話の類が

一冊の本になるくらいあり、

香藤と二人で書いた本があるということも、

事態を好転させてはくれなかった。

「案外、君の言う通りかもしれないな、キョウスケ。

だけどね、それを認めたくないんだ。

彼はあらゆる人を震え上がらせているんだ。私も含めてね。

そこへ、この事故なんだ。」

ピットごしに、二人は、

香藤が建物のすぐ外のベンチに座っているのへ目を向けた。

見られていようといまいと、そんなことはお構いなしで、

香藤はぐんぐん減っている瓶からグラスに半分ほどブランデーを注いだ。

その手はまだ震えていた。

下火になりかけているとはいえ、

観客の怒号は相わからず続いていたので、

普通の声では話が聞こえにくかった。

にもかかわらず、ガラスとガラスがぶつかり合う音は、

はっきりと聞き取れた。

香藤は、ぐっとブランデーを流し込むと、

両肘を膝について瞬き一つしないで

無表情に自分のマシーンの残骸を見つめた。

岩城がそれを見ながら溜息をついた。

「わずか二ヵ月半前まで、

あんな強い酒は一滴も飲んだことがなかったんだよ。

どうするつもりなんだい、ジェームズ?」

「今か?」

マクガバンは、薄っすらと微笑を浮かべると、岩城を振り返った。

「マギーを見てこようと思うんだ。

ショックを受けて、バスに引っ込んでるから。」

見たところ、マクガバンの顔には何の表情も浮かんではいなかったが、

チラッとピットの方を見まわすと、

ふたたびグラスを傾けている香藤から

岩城に負けないくらい浮かない顔をしている、

メカニックのランドルフ兄弟に視線を移し、

ついで、同じように顔をしかめ、

そのしかめっ面を同じ方向に向けているジャンセンと、

ザッキオとエディにちらっと目をやると最後の溜息を漏らして、

ピットに背を向け娘の待つバスへ立ち去っていった。





マギー・マクガバンは22歳で、

長時間日差しを浴びて戸外で過ごしているのに、

肌が抜けるように白く、つやのある黒髪に、茶色の瞳をしていた。

その微笑は人の心をとろかす魅力があった。

外部の大勢の人々は言うに及ばず、無口で気難しいジャンセンでさえ、

程度の差こそあれ、マギーに参っていた。

それを面白がったり、へりくだったりすることもなく、

マギーは平然とそれを受け入れていた。

いずれにしても他人が自分に対して好意を持つのは、

自分も他人に対して好意を持つので、

その当然のお返しだと考えていたのだから、

頭の回転は速かったがいろんな意味でまだまだ若かった。





その夜、マギーはぐったりとホテルのベッドに横たわっていた。

青白い顔でひどく弱って見えたので、尚更若く見えた。

娘を見下ろし、マクガバンは溜息をついた。

屈みこむと娘の額にキスをした。

「ぐっすりと眠るんだよ、マギー。じゃ、おやすみ。」

マギーは無理をして微笑を浮かべようとした。

「安定剤とか飲まされたもの。大丈夫。ねぇ、パパ、」

「何だい?」

「あれはヨウジが悪かったんじゃないのよ。

私にはわかってるの。マシーンのせいよ。

私にはわかってる。」

「まぁ、いずれわかるさ。ジャンセンがばらしてるんだ。」

「きっと、私の言う通りよ。ヨウジに来てって言って。」

「今夜はだめだよ。ちょっと、参ってるんだ。」

マギーは、息を飲んで瞳を見開いた。

「まさか・・・彼も・・・?」

「いや、そうじゃないよ。精神的に参ってるってことでね。

マギーと同じ錠剤を飲まされたんだよ。」

「ヨウジ・カトウが?精神的に参ってるの?信じられないわ。

3度も事故を起こして危うく死ぬところだったのに、

あの人は1度だって・・・。」

マクガバンは無言でマギーの手を握った。

「・・・後でまた、来てみるからね。」





岩城は料理に手もつけずに皿を押しやると、

これもやはり手をつけていないマクガバンの皿に目をやり、

じっと考え込んでいるマクガバンに目を向けた。

「どうやら、二人とも思っていたほどタフじゃないようだね。」

「年のせいだよ、キョウスケ。私はそんなに若くないんだ。」

岩城は皿を引き寄せて悲しげに眺めていたが、

また押しやると溜息をついた。

マクガバンが椅子を押し下げ、立ち上がった。

「少し歩こうと思うんだがな、キョウスケ。」

「腹を空かせるためにかい?無駄だよ。少なくとも、俺には。」

「私だってそうだよ。ジャンセンが何か見つけたかどうか、

調べてみるのも面白いんじゃないかと思っただけなんだ。」







           続く





         2005年9月6日


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