Storm in a tea cup 1 パリのアパルトマンで、 夢も見ないほどぐっすりと眠っていた香藤は、 突然の頬への衝撃と音にベッドの上に跳ね起きた。 呆然として頬を押さえて顔を上げた香藤は、 そこに、新聞を握り締め、拳を震わせ、 怒りを露にする岩城の姿を見た。 「なんだ、これは?!」 「やっ・・・!だ、だからっ?!」 岩城が怒号を上げて、 片手にした新聞を香藤に叩きつけた。 「誤解だって、岩城さん!」 「なにが誤解だ?! 女とホテルから出て来たところを、撮られてるんだぞ?!」 「ち、違うって! そこにいたのは、俺だけじゃないんだってば! 信じてよ!」 朝、届けられた新聞のゴシップ欄に載ったスクープ写真。 岩城に叩き起こされて始まった二人の言い合いは、 リビングへ場所を移し、 それを聞きつけたチャーリー、ラウールと金子が慌てて駆けつけた。 「参りましたね。」 ラウールが金子を溜息と共に振り返った。 「ちょっとねぇ・・・。」 「事前にわからなかったんですか?」 「うん。」 金子が顔を顰めて頷いた。 「どうしよう、リハーサル始まっちゃうよ。」 そんな会話の間にも、二人の、と言うよりは、 一方的な岩城の怒鳴り声と、 香藤の宥めようとする声が続いていた。 「うるさい!」 岩城がそう叫んでくるりと背を向け、 着物の裾を翻しながら、 派手な音を立てて寝室のドアを閉めた。 「岩城さん!ねぇ、岩城さんてば!」 開けようとしてドアノブに手を掛けた香藤は、 鍵が掛っていることに慌てふためき、必死でドアを叩いた。 「岩城さん!ねぇ、開けてってば!」 「あの、香藤さん・・・。」 「なに?今それどころじゃ・・・。」 「ですが、時間が・・・。」 「へっ・・・。」 リサイタルのリハーサル時間が迫っていた。 腕時計に視線を落として、香藤は顔を顰めた。 「ちょっと、いいですか?」 金子が香藤に声を掛けて、ドアに向かって口を開いた。 「あの、岩城さん。金子です。 これからリハーサルに向かわないといけないのですが、 今回の件、戻って来たらお話します。」 「金子さん・・・。」 「とにかく、すぐにオペラ座に向かわないと。」 香藤はドアに視線を向け、溜息をつくと、再びドアを叩いた。 「岩城さん、俺、行かないといけないから。 帰ってきたらドア開けて?お願いだから。」 しーんとしたままのドアに、手を当てて、 香藤は「行ってきます。」と声を掛けた。 チャーリーがそれを見て、肩を竦めて首を振った。 香藤が出かけてからしばらくして、寝室のドアが開いた。 所在無くソファに座っていたラウールが、慌てて立ち上がり、 出て来た岩城を唖然として見つめた。 シャツとジャケット、ジーンズに着替えた姿、 片手には小さめのボストンバッグ。 「あの、マダム?」 「ラウール、」 「はい?」 「空港まで送ってくれ。」 「は?!」 それには答えず、 岩城はバッグをテーブルに置くと、パタパタと歩き出した。 隣の部屋へ入っていき、戸締りをしている音を聞きながら、 ラウールは慌てて与えられている部屋へ飛び込み、 引き出しの中に置いてある自分のパスポートを掴んだ。 リビングへ戻りながら、 スーツの内ポケットを探って財布を取りだし、 中を確認していると、岩城が戻って来た。 「ど、どちらにいらっしゃるんですか?」 「・・・実家に帰る。」 「えっ?!日本に・・・? ですが、あのっ、戻ってこられたら説明・・・。」 「知らん。」 取り付く島のない顔で、岩城はバッグを取り上げ、玄関へ向かった。 その後ろ姿を見つめながら、ラウールは頭を抱えた。 「送ってくれないなら、タクシーを呼んでくれ。」 玄関から岩城の声が聞こえて、 ラウールは焦って小走りに、岩城を追いかけた。 「あの、どちらに?」 「ロワシ。」 「あー・・・はい。」 ポケットの車のキーを握って、ラウールは密やかに嘆息した。 ラウールは、発着ロビーの片隅で携帯電話を取り出した。 チャーリーを呼び出すと、ワンコールで繋がった。 「今、空港にいるんだ。」 『は?空港って・・・ド・ゴール空港か?』 「そうだよ。」 あらかたの説明をすると、 チャーリーが慌てて誰かに声を掛けた。 香藤の悲鳴が電話の向こうから聞こえて、 ラウールは思わず苦笑を浮かべた。 『それで、キョウスケはどこへ行くって?』 「日本だよ。実家に行くと。」 電話の向こうからチャーリーの溜息が聞こえて、 ラウールもそれに釣られた。 「とにかく、俺は一緒に行くから。ヨージに伝えてくれ。」 『了解。ナリタに着いたら、連絡くれ。』 「それから、車、駐車場に置いてあるから、後は頼む。」 ラウンジのソファで、 じっと前を向いて座る岩城に視線を向けながら、 ラウールはもう一件頭の痛い相手に掛けるべく、 再び携帯のコールボタンを押した。 「金子さん、日本行きのチケット取って!」 「無理です。」 「どうして?!岩城さん、帰っちゃったんだよ?! 追いかけないと!」 必死な表情で、両手を振り回すように訴える香藤に、 金子はしみじみと嘆息した。 「香藤さん、このリハーサル、何のリハーサルかわかってますか?」 そう聞かれて、香藤は喉まで出かかった声を飲み込んだ。 パリ・ガルニエのオペラ座で、 今年一番の話題となっているリサイタルが行われる。 ベルリン・フィルと、香藤洋二の共演。 指揮をするのは、サイモン。 超、がつくほど豪華なメンバーに、 当然のようにチケットは完売していた。 「もう、何年も前から決まってたスケジュールなんですよ?」 「そうだけど・・・でも! 十日も抜けられないなんて・・・。」 「香藤さん。」 金子が真顔で香藤を見つめた。 「放り出すわけにいかないんです。 それとも、ちゃんと演奏出来ないのを、 岩城さんのせいになさるんですか?」 「そんなことはしない!」 「なら、」 香藤は肩を落として嘆息すると、 どさり、とソファに腰を落とした。 「大丈夫ですよ。岩城さんはわかってくれますって。」 「や、ヨウジ、久しぶりだね。」 「ああ、サイモン。うん。」 「あれ?」 サイモンが、ステージ脇を見回して、 不思議そうに香藤に視線を戻した。 「キョウスケは来てないのか、珍しいな。」 そのサイモンを、香藤は見上げて顔をくしゃりと顰めた。 「うん。ちょっと。」 「どうした?」 「・・・離婚の危機、かもしんない。」 その穏かでない言葉に、 サイモンは目を見開き、「ああ、」と頷いた。 「あの記事か?」 溜息と共に頷く香藤に、サイモンは肩を竦めた。 「それで元気がなかったのか。 どうせガセだろう?心配しなくても。」 「それが、そうは思ってないみたいでさ。 帰っちゃったんだ。」 「は?」 「帰っちゃったの、日本に。」 唖然としてサイモンは香藤を見つめ、それから吹き出した。 「それは、ご愁傷様。」 「笑いごとじゃないってば!」 「ごめん、ごめん。」 サイモンに頭を撫でられて、香藤は憮然として頬を膨らませた。 「なんだか、だいぶんヨージの様子が変だな。」 休憩に入って、団員達がこそこそと話をしていた。 それを横目で見ながら、 コンサートマスターの保長透が、香藤の控え室をノックした。 「大丈夫?」 「ああ、保長さん、ごめんなさい。」 「遠慮なく言わせて貰えば、ぼろぼろなんだけど?」 あはは、と乾いた声で笑って、香藤は保長に椅子を薦めた。 「保長さんが、ここのコンマスで良かったよ。」 「そう?日本語で話せるからね。」 笑いながら保長は、香藤の顔を覗きこんだ。 「サイモンも言ってたけどね、あの記事のせいなんだろう?」 「うん。」 頷いて、香藤は長い溜息を吐いた。 「参っちゃった。岩城さん、信じてくれなくて。」 「俺達からすれば、君が浮気するなんてありえないんだけどね。」 「でっしょ〜?」 「ああ。ベッタベタに、惚れてるよね。」 そう言って笑う保長に、香藤は肩を竦めた。 「岩城さんも、そう言ってくれると思ったんだけどね。」 「十年見てきた俺が思うに。」 「うん?」 「彼はもの凄く、純粋と言うか、世間知らずと言うか、さ。」 香藤は軽く顔を歪めて頷いた。 「そうだよね。」 「元からそうなのか、君がそうしたのかは知らないけど。 だから、マスコミのことも判ってないだろ? だから、鵜呑みにしたんじゃないのかな?」 「・・・やっぱり?」 「思い当たるんだ?」 こくり、と香藤は頷いた。 じっと視線を落として考え込む香藤を、 保長は黙って見つめた。 「とにかく、香藤君。 この十日間はその事は忘れてくれ。」 ふっと顔を上げて香藤は彼を見返した。 「大事な十日間だ。 四公演に、八千人ほどのお客様達が来る。 彼らをがっかりさせたくはないからね。」 まっすぐに見つめてくる瞳を見返して、 香藤はゆっくりと頷いた。 「岩城君も、それは望んでいないだろう?」 「ええ、余計に怒られちゃいますね。」 ようやくいつもの笑顔に戻った香藤に、 保長は安堵の息を漏らした。 「女房に逃げられた哀れな亭主は、 仕事に没頭するしかないですよね。」 「今だけな。」 保長が楽屋を出て行き、 香藤はバイオリンケースに忍ばせた、 岩城の写真を撮り出した。 艶やかな笑顔の岩城に、香藤はそっとキスを落とした。 成田に到着して、ラウールは岩城をカフェに誘った。 岩城が、黙ったままコーヒーを手に、ラウールを見つめた。 「ついて来なくてもよかったのに。」 「そんなわけにいきませんよ。」 苦笑しながら答えて、 ラウールは少し席を外すと、岩城に伝えた。 携帯を取りだして、使えないことを知ると、 ラウールはちぇ、と舌打ちを洩らした。 やっと見つけた公衆電話で、 チャーリーに成田に着いたことを伝え、 ラウールは岩城の元へ戻った。 「ご自宅に戻られますね?」 「いや・・・。」 「えっ?」 「実家にいくよ。」 「あの・・・。」 岩城は彼に視線を向けることなく、口を開いた。 「あそこだと、香藤も鍵を持ってるからね。」 思わず天井を仰いで、ラウールは頷いた。 「わかりました。」 携帯を取りだした岩城に、ラウールが片手を上げた。 「使えませんよ、それ。」 「あ、そうなのかい?」 「さっき、試してみましたけどダメでした。」 「試した?どこへ掛けようとしたんだい?」 そう聞かれて、ラウールは口篭った。 「香藤にか?」 「ええ、まぁ。」 岩城は少しラウールを睨むと、すっと視線を外した。 「ここらに、公衆電話はあったかな?」 「あります。」 促されて、ラウールは岩城を伴った。 「ああ、義姉さん?俺。京介ですけど。」 黙ってそれを聞いていたラウールは、 電話の向こうが騒がしくなったのに気付いて、 軽い眩暈を憶えた。 「どうしたって・・・帰って来ちゃいけないのか?」 岩城が少しむっとした顔で答えた。 少しのやり取りがあって、電話を切った岩城は、 肩を竦めるようにして笑った。 「まったく、うるさいんだから、兄貴は。」 「仕方ないですよ。心配してるんですから。」 「そうだけど、子供じゃあるまいし。」 ラウールは、笑いながら顔を顰める岩城に、 軽く片目を瞑って見せた。 「あちらは、そうは思ってないみたいですね。」 「昔っからだよ。 なにかって言うと、口出ししてくるんだ。」 「可愛くて仕方ないんじゃないですか?」 「どうだか。香藤と一緒になった時だって・・・。」 そう言い掛けて、岩城は黙りこんだ。 なにか言いたげなラウールの視線を逸らすように、 岩城は隣に立つラウールに、笑顔を向けた。 「ラウールは、日本は初めてかい?」 「ええ。すごく楽しみですよ。」 「うちは、純日本建築の家だから、戸惑うと思うけど。」 「それも、楽しみのうちの一つですね。 文化が違うんだから当たり前ですしね。」 「そうか。」 にっこりと笑う岩城を見て、ラウールはほっと息をついた。 続く 弓 2007年12月2日 |
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