Much Ado About Nothing 15








翌日、昼頃になって、ニキがロビンに連れられて戻ってきた。

前後するようにして、雅彦夫婦と香藤の両親が揃って尋ねてきて、

リビングに招き入れられた。

あたりに、岩城の姿が見えないことに、ニキが首を傾げた。

「奥にいるから、座ってな。」

香藤がそう言ったが、ニキはまだ物言いたげに口を尖らせている。

「昼食、まだですよね?」

「ああ、まだだが・・・。」

雅彦の返事に、香藤はにっこりと笑うと、洋一に顔を向けた。

「親父たちもまだだよな?もうすぐ出来るからさ。」

「お前が作ってるのか?」

「そうだよ。」

驚いて聞き返す洋一に、香藤は笑った。

「一人暮らしが長いと、上手くなるもんだよ。

今も、料理は俺の担当だし。」

「・・・ああ、」

気がついたように声を漏らす雅彦に、周囲の視線が集まった。

「京介は、不器用だからな。料理なんて、無理だろう。」

「岩城さんも、簡単なのなら、作れますよ?」

「ふーん。一応、進歩はしたのか。」






ダイニングに呼ばれた彼らは、白いご飯に、味噌汁、

鮭の照り焼き、煎り豆腐、玉子焼きの並んだテーブルに、

驚きの声を上げた。

「見事に日本食だな。」

「まぁね。けっこう、今は調味料とか、材料とか揃うしね。

鮭は、スコットランド産だから、旨いし。

無理矢理作ろうと思えば、出来るよ。」

脇テーブルに置いた炊飯器を軽く叩いて、

香藤はニキに座るように促した。

「ニキは食べられる?」

美江子の問いに、ニキは元気良く頷いた。

「うん!たまごやき、だいすき!」

「そうなの。」

「ご飯も好きだよな。岩城さんが、箸の持ち方とか、教えたんだよ。」

「・・・そうか。」

なんとも返事の仕様のない様子で、雅彦が頷いた。

「ねぇ、だでぃ、きょうすけは?」

「ああ、呼んでくるよ。みんな、食べてて。」

はーい、と返事をして、ニキが箸を掴んだ。

器用に食べはじめるのを見て、

皆が微笑ましげにそれを眺め、箸を取った。

和やかな雰囲気が、

一気に気まずい緊張感が漂うものに変ったのは、

それからすぐだった。




「大丈夫?」

「・・・ああ。」

そう声が聞こえて、振り返ったその先に、

岩城を横抱きにした香藤がいた。

同じくらいの身長に、けっこうな筋肉が付いているはずの岩城を、

軽々と抱き上げて香藤はダイニングに入ってきた。

その岩城に、ニキが驚いて駆け寄った。

「きょうすけ、どしたの?びょうきなの?」

「ああ、ニキ、」

岩城は掠れた声で、それに答えて微笑んだ。

「大丈夫だ、心配いらないよ。」

子供にはわからないその原因を、他の四人はすぐに気付き、

香藤の母美江子と、冬美は咄嗟に視線を逸らした。

薄っすらと目元が紅色に染まり、

岩城が歩けない原因をあからさまに伝えている。

むっつりとする雅彦の額に浮かぶ皺を見て、

香藤は内心で苦笑を浮かべながら、ニキを見下ろした。

「ニキ、椅子引いてくれ。京介を座らせないとさ。」

「うん!」




一見、和やかな朝食風景。

なにも知らず、ニキだけが満面の笑みで、箸を使っていた。

「上手ね、ニキ。」

「なーに?」

「お箸の使い方。」

美江子が、そう言って微笑んだ。

「じょうず?」

岩城が、嬉しそうに頷くニキの髪を撫でるのを、

苦々しく眉間に皺を寄せたまま、雅彦は眺めていた。

「・・・まったく。」

「なんだ、兄さん?」

「なんだじゃない。」

ぽつ、と小声で呟いた雅彦を、岩城は振り返った。

「子供がいるんだから、ちょっとは慎んだらどうなんだ?」

途端に、飲みかけのお茶を吹き出しかけて、

軽く咳き込む香藤の背を叩きながら、岩城は苦笑を浮かべた。

「ごめん。」

まだ掠れた声の返事に、雅彦はむっつりとして頷いた。

ニキが、岩城の詫びの言葉に、首を傾げて見つめていた。

それに気付いて、香藤がなんでもない、と笑った。

「けんかしたの?」

「違うよ。俺の声が変だから、心配しただけだ。」

岩城は、そう言ってニキの茶碗を持ち上げた。

「お代わりするだろ?」

「うん!」

「沢山食べて、大きくなってね。」

美江子がそう言うと、ニキはにぱっと笑った。

「だでぃみたいに、なれるかな。」

「そうね。」

「性格は、似なくていいからな。」

「ぶほっ」

父親の、容赦のない言葉に、香藤が咽た。

「ひでぇな、親の言う言葉かよ。」

「親だから、言えるんだろう。」

「そうだけどさ。」

ぶちぶちと剥れる香藤をよそに、

岩城達はそれを笑いながら眺めていた。





・・・・・・





二月に入り、香藤は合同テストのため、

フランスにあるサーキット、ポール・リカールに来ていた。

参加したのは、マクガバン、ウォーレン、

カリナ等、十チームほどだった。

各チームは、それぞれの専用コースで調整をこなしたあと、

今回の合同テストで最終チェックを行う。

毎年コンスタントに成績を残しているチームは、

より良いマシンに仕上げるために全力を尽くし、

中盤に留まっているチームは、今年こそは上位へと力を注ぐ。

「吉澄さん、サス、もうちょっと柔らかめにして。」

「了解。」

タイムを映し出すモニターを見ながら、

香藤はコックピットに上半身を潜り込ませる吉澄に、視線を向けた。

吉澄は、ミクロン単位でマシンの調整をする香藤を、

誰よりも理解していて、余計な説明をしなくても済む。

「今年は、どうかね?」

「まあまあ、じゃない?」

「まあまあ、ね。」

肩を竦めるジェームズに、吉澄が笑った。

「洋二のまあまあは、いいって事だよ。」

「そうだがな。毎年、まあまあって言われるとね。」

「気にしない。」

そう言いながら、香藤はバラクラーバを被り、

ヘルメットを手に取った。

狭いコックピットに納まると、じっと目を閉じた。

ふっと息を吐いて、香藤は左手をあげ、

それを合図にエンジンに火が入った。

ブオン、と雄叫びを上げ、

香藤のマシンは、ピットレーンに飛び出して行った。





ピットでメカニック達が眉間に皺を寄せ、

マシンと格闘している中、それ以外の場所では、

少し違った華やかさが漂っていた。

ジャーナリスト達が、インタビューを取ろうとさざめきあっている。

その空気は今年もいよいよ始まるF1サーカスに、浮き立っていた。

中心にいるのは、今年も当然のように香藤洋二だった。

彼の周囲には、ジャーナリスト達だけではなく、

本来、ライバルであるはずのF1ドライバーがいた。

香藤について特筆すべきはその人柄で、

長年ワールドチャンプを独り占めしているのにもかかわらず、

彼にはドライバーの友人が多くいる。

なかでも、ウォーレンチームの,

ナンバーワンドライバーであるネルソンは、

当人同志は仲が悪いと公言しているが、

彼らがその言葉通りでないことは周知の事実で、

現に今も、パドックに設置されたカフェに、二人は並んで座っていた。

「よお、キョウスケはどうしたんだ?」

「あー、今年は来ないぞ。」

「なんで・・・って、ニキか?」

「学校があるだろ。だから、来られない。」

「親の義務、ってやつねー。」

「ありえねーよ。」

顔を顰める香藤に、ネルソンは首を傾げた。

「俺がガキの頃は、親が学校の送り迎えするなんて、

考えられなかったんだよな。」

「・・・日本では、ってことか、それ?」

「そーだよ。」

ネルソンは、半分呆れて、

半分信じられないといった顔で、香藤を見返した。

「今も?」

「わかんねーけど、今は日本もそうなってきてるのかもな。

でも、法律で決まっちゃいないぜ?」

「はー・・・。」

今度こそ感心したように、ネルソンが息を吐き、香藤が振り返った。

「なんだよ?」

「平和だねぇ・・・平和だったのか。」

「まぁ、そうだな。」

「ねー、何の話?」

遠巻きにするプレス達を掻き分けて、

ジュリアン・ビーチがひらひらと手を振りながら、二人に駆け寄った。

「元気、ジュリアン?」

「私は元気よー、結婚式以来かしら?」

にこにこと笑いながら、

ジュリアンは椅子を引き寄せ、身を乗り出した。

「ねぇ、何の話?二人とも、真面目な顔して。」

香藤が首を振って笑った。

「悪いけど、丸っきり仕事とは関係ない話だよ。」

「あら、なに?」

「親の義務について。

もっというと、学校の送り迎えの、イギリスと日本の違い。」

「・・・はあ?なにそれ?」

「だからさー、ニキの学校の送迎があるから、

京介が今年はサーキットに来ないってこと。」

「あら、それはご愁傷様。」

ジュリアンがにこり、と笑った。

「そりゃ、ダディが我慢しないとね。

元はと言えば、ヨウジのせいでしょ?

キョウスケだって、出来るならあんたと一緒に居たいはずよね?」

「わかってるよ、んなことはー。」

「それにしても、やーねー。」

顔を顰めるジュリアンに、ネルソンが視線を向けた。

「だって、やじゃない?ヨウジよ?

あのヨウジが、子供の学校の話、してるなんて!

プレイボーイはどこ行っちゃったのよ?」

「さてな。死んだんじゃねえ?

ここにいるのは、ただの親馬鹿。」

ネルソンがそう言って声を上げて笑い、

香藤は苦笑しながら立ち上がった。

「そろそろピットに戻るよ。」

「おっと、いけね、俺もだ。じゃな、」

はーい、と返事を返して、ジュリアンは彼らに手を振った。

「良い顔になったわよ、ダディ。」










季節はめぐり、F1サーカスが幕を開け、

香藤は第一戦が行われるブラジルへ向かい、

その後南アメリカを転戦し、

ようやくこれからヨーロッパラウンドが始まる。

ニキは二月に小学校へ入学し、

岩城は慌しくも楽しいその世話に追われた。




チッピング・カムデン村の小学校の前に、

ぞくぞくと人や車が集まって来た。

昔は修道院だったなごりの、尖塔の夕方の鐘が、村中に響く。

「こんにちは、キョウスケ。」

「こんにちは。」

アクセルのリードを引いた岩城が、近付いてくるのに気付いて、

他の保護者達が声をかける。

「ヨウジは、今頃どこかしら?」

「ああ・・・次はハンガリーだから、

多分、ブダペストにいるんじゃないか?」

それを聞いてニキのクラスメイトの母親が、くすくすと笑った。

「キョウスケが、行けないから、困ってるんじゃない?」

「毎日、電話とかメールとか、来てそうね。」

「う、ん、・・・まぁ。」

苦笑を零して、答えた岩城の耳に、元気な声が聞こえた。

「キョウスケー!」

ニキが、頭半分ほど小さなクラスメイト達と、

こちらに向かって走って来た。

英語を喋ることは、かなり出来るようになったとは言っても、

書くほうはまだまだ覚束ないニキは、二つ下のクラスに入学していた。

駆け寄って、アクセルにじゃれ付くニキに、岩城は腰を屈めた。

「帰るぞ、ニキ。」

「うん!」

それぞれの母親や、父親の元へ散って行った子供達に、声をかけて、

二人と一匹は徒歩で帰途についた。




「宿題は?」

「えーと、」

アビーが焼いてくれたパンケーキを頬張りながら、

ニキは正面に座っている岩城を、ちらりと見あげた。

「それ食べ終わったら、宿題をやろうな。」

「うん。」

嫌そうに頷くニキに笑いながら、

アビーは岩城の前にお茶の入ったマグを置いた。

「今日は、アンディも宿題して、

ロビンの手伝いするから、来られないよ。」

「えー。」

口を尖らせるニキに、岩城はクスリと笑った。

「書き取り、一杯あるのか?」

「いっぱいある。」

ノートを拡げて、ニキがこくりと頷いた。

黙々と鉛筆を動かすニキを、岩城は隣に座って眺めていた。

「ニキ、スペルが違うぞ。」

「へ?」

「左は、エル・イー・エフ・ティー、だ。」

ノートの上に書かれた文字と、岩城を交互に見て、

ニキは消しゴムを掴んだ。

「それだと、リフト、だな。」

「うぅー。」

ニキがコキコキと消しゴムを動かしながら、岩城を見上げた。

「だでぃ、いま、どこ?」

「ハンガリーだ。」

「つぎ、かてるかなぁ・・・?」

ニキの呟きに、岩城は苦笑を浮かべた。

香藤は、初戦に勝ちはしたものの、

第二戦はクラッシュしてリタイアし、

その後は、やっとポディアムに乗れる程度、

三位でフィニッシュしてはいた。

その後もう一勝したあとも、戦積は上がっていない。

ポイントも、首位のネルソンに大きく水を開けられている。

「夏休みになったら、会いに行こう。」

「ほんと?」

「ああ、本当だ。」

「きゃほー!」

声を上げて喜ぶニキを、岩城は微笑んで見返した。

その時、いきなり大きな声が聞こえた。

「ただいまー!」






続く






   弓





  2010年2月27日
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