捻じれたサーキット 10







同じ日の晩、

岩城とヘンリーはホテルのロビーの、

あまり人のいない片隅に座っていた。

岩城の顔には、

例によって謎のようなと言ってもいい表情が浮んでいた。

ヘンリーはいささか呆気に取られているようだったが、

持って生まれた抜け目のなさで懸命に今の状況を把握し、

これから置かれる境遇に順応しようとしていた。

「あんたって人は、物事をはっきり言う人だね、イワキさん。」

その声には、自分よりも知能の優れた人に対する敬意が、

滲み出ていたが、

岩城はそんなことなどには、まったく動じていなかった。

「ずばりというのが、出きるかぎり簡潔に言うっていう意味なら、

確かにそうだね。

で、了承するのかい、それともしないのかい?」

「もう少し、考える時間ってものをくれてもいいんじゃないかね?」

岩城は、辛抱強く口を開いた。

「考える余地なんて、まずないんだよ、ヘンリー。

承知するかしないかだけの問題なんだ。

無条件に受け入れるか、拒否するかなんだ。」

「もし、拒否したら?」

「そうなったら、しかるべき手を打つまでのことだね。」

ヘンリーは、その顔にはっきりと不安の色を浮かべて、

岩城を見返した。

「そういう言い方をされると、どうもね、イワキさん。」

「どういう風に受け取ったんだ、ヘンリー?」

「いや・・・その・・・強迫してるとか、

脅かしてるわけじゃないんでしょうね?」

岩城は、す、と目を細めた。

「君が言わせたんだぞ、ヘンリー。

君みたいに、悪いことなんて何一つしていない男を,

強迫なんて出来るわけがないだろう?

それに、俺がなんで君を脅かさなきゃならないんだい?」

岩城は、長い間を置いて、再び口を開いた。

「承知するのか、しないのかい?」

ヘンリーは諦めて溜息を漏らすと、頷いた。

「わかりましたよ。わたしにゃ、

失うものなんて何一つないんだからね。

5千ポンド貰えたうえに、

うちのマルセーユの修理工場で働けるんなら、

ばぁさんだって売り飛ばしまさぁ。」

「そんなことは、必要ないさ。ただ、絶対に喋らないこと。

それだけでいいんだ。これが、診断書だよ。

心臓の病気がかなり進んでるんで、重労働には耐えられない、

輸送車を運転するようなことは、無理だって書いてあるんだ。」

「近頃、どうも調子がよくなかったんだ、ほんとに。」

岩城は微かにそれとわかるような微笑を浮かべた。

「そうじゃないかと思ってたんだよ。」

「マクガバンさんは、このことを知っとるのかね?」

「君が話したときに、知るってことさ。」

「マクガバンさんが黙ってるかね?」

「承知するか、という意味なら、するさ。

他にどうしようもないだろうからね。」

ヘンリーは、じっと岩城の顔を見つめた。

「こんなことをする理由を聞かせてもらえるかね?」

「そうはいかないんだ。余計なことを聞かないでもらう為に、

5千ポンド払うんだからね。

それに、喋らないでもらうために、だ。永久にね。」

「あんたは、ジャーナリストだっていうのに、

変わったジャーナリストだな。」

「そうだね。

さぁ、ヘンリー。もうマクガバンさんに会いにいった方がいいぞ。」

ヘンリーは、黙って立ち上がった。





岩城は、部屋へ帰ると短い手紙を書き、

丈夫な茶封筒にアドレスを書いて、速達・至急と書き込んで、

手紙とマイクロフィルムをその封筒に入れた。

廊下へ出たとき、岩城はとなりの部屋のドアが、

少し開いていることに、気付かなかった。

覗いていたのは、ザッキオだった。

ザッキオは、ドアを閉めるとバルコニーへでて、

大きく腕を振って合図した。

はるか彼方、ホテルの前庭のずっと先で、

ぼんやりと見える人影が腕を上げてそれに答えた。

ザッキオは、足早に階下に降りると、ヴィリを見つけ、

二人は肩を並べてバーへ歩いていった。

腰を下ろして、二人はソフトドリンクを頼んだ。

二人は、香藤にほとんど負けないくらい顔を知られていたので、

20人ほどの客が彼らに気付いた。

しかし、ザッキオは中途半端なアリバイで、満足する男ではなかった。

「5時にミラノから電話がかかることになってるんだ。今、何時だい?」

ザッキオが、バーテンに向かって言った。

「ちょうど5時です、ザッキオ様。」

「フロントに、ここにいるって言っといてくれないかな?」





郵便局へは、両側に馬屋を改造したアパートと、

自動車修理工場の並ぶ狭い裏通りを抜けていくのが、近道だった。

通りにはほとんど、人影がなく、

岩城は土曜日の午後だからだろうと思った。

200メートル足らずの短い裏通りには、

ドアを開けた修理工場の外で、

自分の車のエンジンルームを開けて、

つついているオーバーオールを着た男が、

一人いるだけだった。

イタリア人、というよりもフランス人のように、

ネイヴィーブルーのベレー帽を目深に被り、

出ている部分もオイルとグリースでひどく汚れていたので、

その顔を見分けることはまず、不可能だった。

マクガバン・レーシング・チームの一員だったら、

5秒でクビだろうと岩城はピントの外れたことを思った。

岩城が、車のそばを通りかかると、修理工が不意に上体を起こした。

ぶつかるのを避けるために、岩城が横によけると、

修理工は片足を車の側面にかけ、車をけるようにして勢いをつけると、

身体ごと岩城にぶつかっていった。

完全にバランスを失い、倒れ掛かりながら、

岩城は足をふらつかせて、

開いている修理工場の入口へ飛び込んでいった。

すでに、頭から床へ突っ込みかけていたのだが、

それはストッキングで顔を隠した二人の大柄な男によって、

荒々しく早められた。

修理工場の、ドアが閉まった。





岩城が、ホテルに戻ってきた時、

エディは毒々しい漫画雑誌を読みふけり、

すでにアリバイを確立したザッキオとヴィリはまだ、バーにいた。

岩城は、両側を警官に支えられていなかったら、

その場に倒れこんでいただろう。

口の中が切れて、血が口の端から流れ、上着とシャツが汚れていた。

腫れあがった右頬が痛々しく、上着の袖やズボンの所々も、裂けていた。

ザッキオ、ヴィリ、エディ、それにフロントの若い娘が、

ほとんど同時に岩城に駆け寄った。

ザッキオの声ににじみ出たショックは、

その顔に浮んだ表情と見事につりあっていた。

「一体、どうしたんです、イワキさん?」

岩城は、微笑を浮かべようとしたが、あまりの痛さにたじろいだ。

はっきりしない声で、岩城は襲われたと答えた。

途端に、腹部に痛みが走って鳩尾を押さえた。

それをヴィリが支えようとしながら口を開いた。

「しかし、誰が・・・いや、どこで?どうしてなんです?イワキさん?」

警官の一人が片手を挙げると、フロント係の方を向いた。

「すぐに、医者を。」

「はい、ただいま!」

「ザッキオ様、イワキ様のお部屋はご存知でいらっしゃいますね?

大変恐れ入りますが、こちらの警官を・・・」

フロント係の言葉を遮って、ザッキオが言った。

「その必要はないよ。

ヴィリと二人で、イワキさんを連れて行くから。」

「そうはいかないんですよ。話を聞かないと。」

ザッキオの噛み付くようなしかめっ面を向けられて、

その警官はためらった。

「警察の番号をこのお嬢さんに言っといてください。

医者が喋ってもいいといったら、連絡しますよ。

とにかく今は、すぐに寝かせなきゃならないんですよ?

わかるでしょう?」

二人の警官は、頷くと何も言わずに出て行った。

ザッキオとヴィリが戸惑うと同時に、

心配そうについてくるエディを従えて、岩城を部屋に連れて行き、

ベッドに寝かせかけていると、医者がやってきた。

まだ若い医者だったが、非常にてきぱきとしており、

3人に部屋を出て行くように求めた。

廊下に出ると、エディが真っ先に口を開いた。

「どうして、イワキさんに、あんなことしたんだろう?」

「そんなこと、わかるもんか。」

ザッキオが、むっつりと答えた。

「強盗か、泥棒か。まともに働くより、

人を襲って金目のものを奪った方がいい、

と考えるような連中の仕業だろう。」

ザッキオは、エディにもわかるように、

ヴィリにちらっと視線を投げかけた。

「世の中には、不愉快な連中が大勢いるんだよ、エディ。

こういうことは、警察に任せとこうじゃないか。」

「じゃ、ザッキオさんたちはイワキさんがあんな目にあったのに・・・。」

「我々は、レーサーなんだよ、坊や。探偵じゃないんだ。」

「僕は、坊やなんかじゃない!もうじき、17になるんだ。

それに、馬鹿でもないんだ。

すごく、怪しげでおかしなことが行われてるんだ。

それで、どこかでカトウが一枚噛んでるに違いないんだよ。」

「カトウが?」

ザッキオは、面白がっているように眉を吊り上げたが、

エディにはそれが馬鹿にされたように感じた。

「いい加減にしろって、エディ。

カトウとイワキさんが話してるのを盗み聞きしたのは、君なんだぞ。」

「ふん、問題はそこなんだよ。

二人が喋ってることが聞こえたわけじゃないんだ。

二人の声が聞こえただけで内容までは聞き取れなかったんだよ。

ひょっとしたら、カトウはイワキさんを、

脅かしてたのかもしれないんだよ?」

エディは今まで気付かなかったこの考えに、

いったん言葉を切ったがそれはあっという間に確信へと変わった。

「もちろん、そうだったに違いないんだ。

イワキさんがカトウを裏切ってたか、あるいは強請ってたんで、

カトウがイワキさんを脅かしてたんだよ。」

ザッキオは、できるだけ優しく言った。

「エディ、君はミステリーの読みすぎだよ。

たとえイワキさんがカトウを裏切るなり、強請るなりしてたとして、

イワキさんを袋叩きにしてなんの役に立つんだ?

彼が消えるわけじゃないだろ?

イワキさんとしては、君の言う裏切りなり、

強請りなりをまだ続けられるわけなんだよ?

残念ながら、もう少しましな推理をしてもらわないとだめだな、エディ。」

エディは、ザッキオの顔を見ながら言った。

「出来るかもしれないよ。イワキさんは本通りへ通じてる狭い裏通りで、

袋叩きにあったって言ったんだよ。

あの裏通りの向こうには、郵便局があるんだよ?

もしかしたら、イワキさんはカトウについて、

何か掴んだ証拠をどこかへ送るために、

郵便局へ行こうとしてたのかもしれないんだ。

これ以上、その証拠を持ち歩いてるのは、

危険だと思ったということも考えられるんだよ。

それで、カトウはそれを送れないようにしたのさ。」

ヴィリは、ザッキオに目をやり、ついで、またエディに視線を戻した。

ヴィリの顔から、微笑が消えていた。

「どういう証拠だ、エディ。」

「そんなこと、わかるわけないじゃない。」

エディの表情には、いらつきが浮んでいた。

「今までは、僕がいろいろ考えてきたんだよ。

たまにはそっちの二人も少しは考えてみたらどうなの?」

言われて、ザッキオとヴィリは、真剣に考え込みはじめた。

「それもそうだが、このことをあっちこっち喋りまわるなよ。

まだ何一つ、証拠をつかめてないってだけじゃなくて、

名誉毀損で訴えられることもあるんだからね。」

「さっきも言ったけど、僕は馬鹿じゃないんだ。

それに、あなた達も、

カトウの足をすくおうとしてるのが知れちゃったら、

あんまり具合がよくないだろうからね。」

「まったくその通りだな。悪い噂ってのは、伝わるのが早いからな。」

ザッキオがそう言って、廊下の先に顔を向けた。

マクガバンが、怒りを滲ませた、

ぞっとするほど厳しい顔で向かってきていた。

「本当なのか?」

「残念ながら、本当ですよ。何者かが、袋叩きにしたんです。」

「いったい、どうしてなんだ?」

「どうやら、物盗りらしいですよ。」

「物盗り?!真昼間にか?いつ、どこでやられたんだ?」

「彼が出て行ったとき、俺とヴィリはバーにいたんですよ。

その時、バーテンと話していて、5時だってわかってるんですが、

彼が戻ってきた時もバーにいて、

確か、5時15分でしたよ。

それだけの時間で、そう遠くまで行ってるはずないと思いますが。」

マクガバンは、首を振ってそれを聞いていた。

「いま、キョウスケはどこにいるんだ?」

「そこです。自分の部屋ですよ。

医者が来ていて、俺達は追い出されたんです。」

「まぁ、私まで追い出すようなことはしないだろう。」

マクガバンは、部屋へ入り5分後に出てきたが、医者と一緒だった。

そのマクガバンの顔には、怒りと心配の色が浮んでいた。

マクガバンは、黙って自分の部屋へ戻って行った。









        続く





      2006年1月7日







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