捻じれたサーキット 9






香藤はすでに一台のマシーンを1メートルほど後へ動かしていた。

そして、マシーンの下になっていた床板をじっと見つめていたが、

手を伸ばして強力な懐中電灯を取ると、

跪いて一心に床を調べ始めた。

縦に通っている床板の一枚に、

15センチほどの間隔で2本、

横に線が走っているのに気付いた。

前のほうの線を油の染みた布で擦ると、

それが線などではなく、

非常に狭い切れ目であることがわかった。

板を止めてある二本の釘の頭は、

油の為に光っていて、まったく傷がついていなかった。

のみを差し込んでこじると、

はめ込んであった板の前部が驚くほど簡単に持ち上がった。

香藤は片腕を突っ込んで、

はずれた板の下の空間の深さと長さを調べた。

わずかにつりあがった眉が、

さすがの香藤もいささか驚いたことを伝えていた。

香藤は腕を引き抜くと、指先を口と鼻先へもっていった。

その表情には、それとわかるほどの変化は見られなかった。

香藤は、はずした板を元のところに戻すと、

のみの柄で光っている釘の頭をそっと叩いてはめ込んだ。

そして、適当に油が染みて汚れた布で切れ目と釘を汚しておいた。





香藤がホテルを出てから帰り着くまでに、45分経過していた。

広々としたロビーは、がらんとしていて人影もまばらだったが、

実際には百人以上の人がいたに違いなく、

その多くが公式のレセプションから引き上げてきた連中だった。

おそらく、遅い夕食までの間を、そこでつぶしているに違いなかった。

最初に香藤の目に入ってきたのは、マクガバンと岩城で、

小さなテーブルをはさみ、二人だけで食前酒を飲んでいた。

そこから二つ目のテーブルには、

マギーとエディがソフトドリンクのグラスを前に、黙り込んでいた。

香藤が見つけるとほとんど同時に、彼らも香藤に気がついた。

マクガバンは立ち上がると、岩城を振り返った。

「すまないが、マギーを連れて行ってやってくれないか。」

「ああ、かまわないよ。」

計算された冷ややかな、

拒絶の意思を持った背中が立ち去って行くのを、

香藤は何の表情も浮かべずに見送った。

マギーが凄まじい勢いで近付いてくるのに気付いて、

その無表情な顔が不審げに翳った。

「あなたはそんな姿を、人前に晒さなきゃいられないの?」

香藤はわけがわからずに眉をひそめた。

「また、飲んでたのね?」

「そうだよ。なんとでも言えばいいよ。」

「いい加減にしてよ!

素面の男は、通りでばったり倒れたりしないものなのよ。

その服がどんなになってるか、見てごらんなさいよ。

その汚れた手と。さぁ!見てごらんなさいよ!」

香藤は自分の服と手を見下ろして笑った。

「ああ!そういうことか!じゃ、おやすみ、マギー。」

香藤は階段のほうを向くと、

少し歩いたが岩城がその前に立ちふさがると、

不意に立ち止まった。

しばらくの間、二人の男は瞬き一つしないで顔を見合わせていたが、

やがて、岩城の眉がほとんどわからないほど、わずかにつりあがった。

香藤が口を切ったが、その声は、非常に落ち着いていた。

「これから行こう。」

「わかった。」





今では、自分の部屋で食事をするのが毎日の習慣になっていたので、

香藤はコーヒーを飲み終わると、窓際へ行った。

空はどんよりと曇っていたが、

地面は乾いていて視界もよく、

サーキットのコンディションはまず理想的といってよかった。

香藤はバスルームへ行くと、窓をいっぱいに開け、

水槽の蓋をはずしてスコッチを取り出し、

洗面台のお湯を出して瓶の中身を半分捨てた。

それから、瓶を元通りに隠すと、

匂い消しのスプレーを振りまいて出て行った。

今では、香藤のフェラーリの助手席に座る人は滅多にいなかったので、

彼が一人でサーキットに乗りつけると、

ジャンセンとその部下の二人のメカニック、

それに岩城がすでに待っていた。

香藤はそっけなく声をかけると、レーシング・スーツにヘルメットを被って、

新しいマシーンのコックピットに座った。

ジャンセンは、例によってむっつりした顔を香藤に向けた。

「今日はいいラップ・タイムを出してくれよ、ヨウジ。」

「昨日も、そう悪くないタイムだったつもりだけどね。

でも、まあ、やれるだけやってみるよ。」

香藤は穏やかに言いながら、

スターターに指を当てると岩城をちらっと見た。

「今日は、わがオーナー殿はどこにいるんだろう?

プラクティス・ラップを見に来ないなんて、初めてじゃないかな。」

「ホテルだよ。色々とやらなきゃならないことがあるんだよ。」





確かに、マクガバンにはやらなくてはならないことがあった。

その瞬間に、マクガバンがしていたことは、

すでに日課になっていたと言ってもいいような嫌な仕事だった。

香藤の部屋にある酒の残量を調べていたのだ。

香藤の部屋に入った途端、

マクガバンは水槽の中のスコッチの量を調べることは、

たんに形式的なことだということに気付いた。

大きく窓が開け放たれ、

エアゾール・スプレーの匂いがぷんぷんしていたのでは、

それ以上調べる必要もないくらいだった。

しかし、調べるだけ調べてみたマクガバンは、

半分以上減っている瓶の中身に、その顔が怒りに曇った。

マクガバンは、香藤の部屋を出るとホテルのロビーを駆け抜け、

アストン・マーチンに飛び乗った。





サーキットに着いてからも、マクガバンは、走っていた。

ピットに駆けつけると、岩城が立ち去りかけているところだった。

「ヨウジの奴はどこだ?」

マクガバンは、ひどく息を喘がせて叫んだ。

「どうしたんだ?

あの放浪癖のある呑んだくれは、どこにいるんだ?」

その声には、明らかに怒鳴っていた。

「奴にはコースに近付くことさえ、許しちゃいけないんだ。」

「モンツァには、その意見に賛成するレーサーが大勢いるよ。」

「キョウスケ、それはどういう意味で言ってるつもりなんだ?」

「その放浪癖のある呑んだくれが、

たった今、2・1秒もラップ・レコードを更新したっていうことだよ。」

岩城はなんとも信じられないというように首を振った。

「2・1秒も!2・1秒だって!2・1秒もか?」

今度は、マクガバンが首を振る番だった。

「ありえないね。そんなこと、ありえないね。」

「確認してみたらどうだい?それも、2度もだよ?」

「何てことだ!」

「あんまり嬉しそうじゃないみたいだね、ジェームズ?」

「嬉しい?私は震えあがってるんだよ、キョウスケ。

そりゃ、奴はまだ世界一のレーサーだろう。

いつも腰砕けになっちまう本番以外ではね。

それだけの時間で1周できるのは、

運転技術が優れてたからじゃないんだ。

酒の勢いを借りて突っ走ったからなんだよ。」

「何を言ってるのか、わからないんだが?」

「奴はスコッチを半分飲んでるんだ。」

岩城は、マクガバンにじっと目を向けていた。

「そんなこと、信じないよ。とても、信じられない。

凄まじい勢いで飛ばしてはいたかもしれないけど、

なんとも見事な運転ぶりでもあったんだよ?

そんなことしてたら、もう死んでるよ。」

「その時、ほかの連中が走ってなくてよかったよ。

走ってたら、おそらく巻き添えにしてたろうからね。」

「しかし・・・しかし、半分開けたって?!」

「一緒に来て、水槽を覗きたいか?」

岩城は慌てて首を振った。

「いや、あなたの言葉を信じてないってわけじゃないんだ。

ただ、わけがわからないってだけなんだよ。」

「私だってそうだ。私だって、そうなんだよ。

で、わがワールドチャンピオンは、今どこにいるんだ?」

「もう、引き上げて行ったよ。

明日のポール・ポジションは俺のものだ、もし誰かに奪われたら、

また戻ってきて奪い返すだけの事だって、言ってね。」

「そんな・・そういう口の聞き方は、

ヨウジは今まで一度だってしたことがなかったんだ。

傲慢になってるんじゃなくてね、キョウスケ、

酔っ払って雲の上で踊ってるだけなんだ。

まったく、えらい事になったもんだな。

そう思わないか?」

ジェームズの、顰めた顔を見ながら、岩城は黙って頷いた。





その同じ土曜日の午後、

マクガバンがモンツァのうらぶれたある狭い通りに出かけていたら、

抱えている問題が2倍にも3倍にも膨れ上がっていると考えただろう。

2件の似たり寄ったりの小さなカフェが、

その狭い通りを隔てて向かい合っていた。

その種のカフェが大抵そうであるように、

どちらの店も背もたれの高いボックスが一方の壁際に並んでいた。

通りのこちら側の店の窓から離れたボックスに、

ヴィリとザッキオが口もつけていないグラスを前にして座っていた。

二人の注意は、目の前の酒よりも、

向かい側のカフェに向けられていた。

窓の近い、はっきりと見えるところに、

香藤と岩城がボックスのテーブルを挟んで座り、

グラスを手に何か熱心に話し合っていたのだ。

「ここまで奴らをつけてきたけど、これからどうするんだ?」

ヴィリが向かいの店を見ながら口を開いた。

「何を話してるんだろうな?」

「もう少し様子を見て、出たとこ勝負といくか?

つくづく、読唇術でも出来ればいいのにって思うね。」

ザッキオが、同じように香藤と岩城を見ながら、首を振った。

「ここんとこ、人前じゃほとんど口も聞かなかったのに、

なんでこんな裏通りまで来なきゃならないんだ、あの二人は?

ヨウジの奴、えらく怪しげなことを企んでそうだしな。」

「まだ、首は痛むのか?」

「当り前だ、ヴィリ。

イワキはジャーナリストに過ぎないはずなんだがな。

落ち目のレーサーとジャーナリストが組んで企むことって、

どんなことが考えられる?」

「落ち目?今朝の奴のタイムを見たのか?」

「俺が落ち目だと言ったら、落ち目だってことさ。

まぁ見てろ。ここのところ立て続けにだめだったみたいに、

明日もきっとだめになるに決まってる。」

ザッキオはそう言うと、ヴィリの腕を掴んだ。

「見ろよ。ひょっとすると俺たちのかわりに、

盗み聞きしてくれる奴が現れたのかもしれないぞ。」

ヴィリはむかいのカフェに目を向けた。

ひそかに抜き足差し足でエディが、

香藤と岩城のいるボックスの隣へ入りかけていた。

二つのボックスの間は、1メートルと離れていなかった。

腰を下ろすと、エディは背中と頭を境の背もたれに押し付けて、

聞き耳を立てているようだった。

「マクガバンの息子は、一体何をしようとしてるんだ?」

「見当もつかないね。一つだけはっきり言えることは、

香藤にとってはありがたくないことを、企んでるってことだけだな。

香藤を憎んでるってことさ。」

「じゃ、味方が出来たってわけか、ザッキオ?」

「まぁ、そうだろうな。あのガキを丸め込めるような、

うまい話をでっち上げようじゃないか。」

そう言ってザッキオは、向かい側に目を向けた。

「エディ坊やは、あんまり満足していないようだな。」





たしかに、エディは満足していなかった。

その表情には、苛立ちと怒りと当惑が入り混じっていた。

ボックスの背もたれが高く、

ほかの客の話し声が結構うるさかった為、

隣のボックスの話し声が断片的にしか聞き取れなかったのだ。

香藤と岩城が、常に低い声で話をしていたこともあった。

二人とも、グラスに入った透明な液体には手もつけず、

顔を寄せ合うようにしていた。

岩城は、手の平に乗せた小さなフィルムのカセットを、

考え込んだように眺めていたが、

やがてそれを上着の内ポケットに仕舞った。

「暗号の写真だって?たしかか、香藤?」

「たしかに暗号だよ、それは。

たぶん、わかりにくい外国語も、使われてるんじゃないかな?

俺はそっちの専門家じゃないから、わからないけど。」

「俺だってそうだよ。

ま、専門機関があるから、すぐにわかるだろうけどな。

それから、マクガバン・チームの輸送車の件だが、

あれも確かなのか?」

「疑う余地なしって感じ。」

「そうか。」

岩城は小さく溜息をついた。

「ちょっと厄介なことになったな。

ヘンリーがかんでるってことは、考えられないか?」

「それはないね、岩城さん。賭けてもいいよ。」

「たとえ、移動のたびに輸送車に載ってるのが、彼だけだとしてもか?」

「そうだよ。」

香藤は真っ直ぐに岩城を見つめた。

その瞳を見て岩城は頷いた。

「で、ヘンリーに辞めて貰わないといけないわけだな?」

「そうするほか、ないと思う。」

「ヘンリー退場か。少しの間、我慢してもらうしかないな。」

香藤が、心配げに岩城を見つめた。

「でも、もし彼がいやだって言ったら?」

「誘拐させるよ。」

岩城はこともなげに言葉を続けた。

「あるいは、別の方法で何とかさせる。

もちろん苦痛を与えるようなことはしないけどね。

でも、同意するだろう。

もう医者の診断書も用意してあるんだ。」

そう言って、にやりと笑った岩城に、香藤は呆れて首を振った。

「医者のモラルってのは、どこに行っちゃったんだろうなぁ。」

「500ポンドつけて、

心雑音があるって言う本物の診断書を見せてやれば、

医者としての躊躇いなんてのは、

テムズに舞い落ちた雪みたいに消えていくもんだよ。」





二人の男は、立ち上がりボックスを出て行った。

しばらくして、エディももう安全だろうと考えたらしく、

立ち上がって店を出て行った。

向かいのカフェでも、ヴィリとザッキオが席を立ち、

足早にエディを追いかけた。

「ちょっと、話があるんだけどな、エディ。

君は秘密を守れるかい?」

声をかけられたエディは、驚いて立ちすくんだ。

「秘密って、何に関する秘密?」

「ずいぶん、疑い深いんだな。」

ザッキオはいかにも曰くありげに言った。

「ヨウジ・カトウさ。」

「それなら、話は別だよ。もちろん秘密は守れるさ。」

エディは途端に、乗り気になって頷いた。

「じゃ、一言も漏らしちゃいけないよ?

でないと、すべてが台無しになるからな。」

ヴィリはそう言って、エディの肩に手を置いた。

「GPDAのことは知ってるね?」

「知ってるよ。グランプリドライバー協会のことでしょう?」

「そうだ。で、その協会が観客も含めて我々の安全を守る為に、

カトウをグランプリ出場選手名簿からはずずべきだ、

という決定を下したんだ。

奴が酒を飲んでるのは、知ってるね?」

「知らない人なんている?」

「あんまり飲むから、ヨーロッパでも、

もっとも危険なドライバーになっちゃったんだ。」

ヴィリは、いかにも深刻そうな低い声で、言った。

「他のレーサーはみんな、

奴と一緒に走るのをひどく恐がってるんだよ。

いつ自分が次のイザクになるかわからないからな。」

「じゃあ・・・じゃあ、あの時も?」

「あの時も、奴は酔ってたんだよ。

ちょっと飲みすぎどころじゃない。

あれは人殺しも同然だとは思わないか?」

「思うよ!もちろん、思うよ!」

ヴィリとザッキオは、エディに向かって頷いた。

「で、ヴィリと僕が協会から証拠を集めるように頼まれたんだよ。

奴が飲んでるっていう証拠をね。

特に大きなレースの前にだ。

エディ、協力してくれるかい?」

「そんなこと、決まってるじゃない!」

「わかったよ、わかってるよ、エディ。

たった今、二人があそこのカフェにいたのを見ただろう?

カトウは飲んでたかい?」

「はっきりと見たわけじゃないから、わからないけど。

でも、イワキさんがジンがどうのこうの言ってるのが聞こえたし、

ウェイターが水みたいに見えるものを入れたグラスを、

二つ持ってくるのは見たよ。」

「水だって!」

ザッキオは悲しげに首を振った。

「いずれにしても、ありそうなことだな。

しかし、ちょっと信じられないのは、

イワキが・・・ま、なんとも言えないけどね。

二人が酒の話をしているのを聞いたのかい?」

「イワキさんがどうしたの?

イワキさんにも、何かおかしいとこがあるの?」

ザッキオは、エディの好奇心を煽るのは、

それが一番いいということがわかっていたので、

わざと曖昧に言った。

「彼のことは何も知らないんだ。今は酒のことだよ。」

「二人は、すごく低い声で話してたんだよ。

僕に聞き取れたのは、フィルムのカセットを、

入れ替えといたとか何とかいう事だけなんだ。

ヨウジがイワキさんに渡したものをね。

なんのことか、さっぱりわからないけど。」

「それは、まず我々には、関係ないな。

でも、そのほかのことは関係あるんだ。

これからも、そうやって探ってくれるかい?」

ザッキオの言葉に、エディは頷くと立ち去っていった。

ヴィリとザッキオは、激しい怒りの滲んだ顔を見合わせた。

「ずる賢い野郎だな!

俺達が光に当てたのは、ただのカスだったんだ。」

ザッキオが歯を喰いしばるように言った。







       続く





     2005年12月25日
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