捻じれたサーキット 11







香藤がホテルへ戻ってきた時、

ザッキオとヴィリ、そしてエディは、

ロビーで壁際のテーブルを囲んでいた。

3人の姿が目に入ったとも思えず、

香藤は何の注意も払わず、

まっすぐにロビーを横切って階段へ向かった。

おずおずと近付こうとしたり、

敬意のこもった微笑を投げかけてくる人がいると、

一、二度かすかに微笑を浮かべたが、

そういう時以外は、

その顔には例によって何の表情も浮んでいなかった。

「カトウの奴、人生になんか興味がないって顔してるな。」

「まったくだね。」

エディが、噛み付くようなものの言い方をした。

「あいつは死についてだって、そう気にしちゃいないに違いないよ。

たとえ親が死にかけてたって、あいつなら・・・。」

「エディ、」

ザッキオが、手をあげてエディを制した。

「君は想像が逞しすぎるぞ。

グランプリ・ドライバー協会は立派な団体なんだ。

世間の人たちにもいい印象を与えているんだ。

それを損ないたくないんだよ。

もちろん、我々は君が味方についてくれたことを喜んでいるけど、

今みたいに感情的になって無茶なことを言うのは、

我々みんなを傷付けるだけなんだ。」

エディはかわるがわる二人を睨みつけると、

肩を怒らせて去って行った。

ヴィリは、悲しげな顔でその背中を見つめた。

「あの火付け坊やは、きっと近いうちにこっぴどい目に合わされるぞ。」

「いい薬になるだろうさ。何れにせよ、俺達には関係ない。」

そのヴィリの予想は、驚くほど短時間のうちに当たった。





香藤は、ドアを閉めてそれに背をつけ、瞳を閉じた。

それまでの無表情が嘘のように、顔をしかめ大きく息をついた。

ゆっくりと、岩城がぐったりと横たわるベッドの脇へ行き、

その顔を見下ろした。

少しして、顔をドアの方へ向けると、香藤は舌を鳴らした。

そっと近付いて、そのドアをさっと開けると、

エディが文字通り部屋の中へ転がり込むと、

床へばったりと倒れた。

何も言わず、香藤はエディの上に屈みこむと、

その髪をつかんで引っ張り、立ち上がらせた。

エディは、あまりの痛さにするどい悲鳴を上げた。

香藤は沈黙したまま、髪の毛を掴んでいた手を耳に移すと、

エディを引き摺るようにして廊下を行き、マクガバンの部屋へ向かった。





マクガバンは、ベッドに横になっていたが、片肘をついて上体を上げた。

息子の受けている仕打ちに対する怒りが、

それをしているのが香藤だと言うことによって、抑えられていた。

「現在、俺がチームであんまり好かれていないことはわかってるし、

エディがあなたの息子だってこともわかってるけど、

今度、人のことをこそこそと探りまわって、

盗み聞きしようとしているのを見つけたら、

ぶん殴ってやりますからね。」

マクガバンは、香藤に目を向け、

ついで、エディの泣き顔に視線を移すと、

また香藤に目を戻した。

「信じられないな。そんなこと、私は信じないぞ。」

その声には、力がなく、心からそう思っているとは到底思えなかった。

「あなたが信じようと信じまいと、そんなことはどうでもいいんですよ。」

香藤は再び、無表情な顔に戻っていた。

「でも、岩城さんの言うことなら信じるでしょう?

行って聞いてみたらどうです?

岩城さんの部屋のドアを開けて、エディが転がり込んできたとき、

俺はそこにいたんです。」

マクガバンは、エディに視線を向けたが、

それは息子を見る父親といった感じではなかった。

「ほんとうなのか?」

エディは袖で涙を拭うと、拗ねたようにじっと靴の先を見つめていた。

「エディは私に任せてくれないか、ヨウジ?

君の言葉を疑ったように聞こえたんなら、許してくれ。

疑ったわけじゃないんだ。」

香藤は頷くと、岩城の部屋へ戻っていった。





ドアの鍵をかけて、岩城が黙って見守る中、

香藤は部屋中を徹底的に調べ始めた。

何分か後、まだ満足出来ないらしく、

香藤はバスルームへ行き蛇口とシャワーをいっぱいに開いて、

ドアを開けたまま岩城のそばへ戻った。

一言も断りもせず、香藤は置いてあった岩城の着ていた上着を探った。

そして、それをクローゼットに戻すと、

岩城の着ている破れたシャツと、

時計のあとの残る手首を見つめた。

「おかしいんだ。」

岩城の声は、ひどく掠れていてどこかにマイクがあっても、

とうてい拾えないだろうと思われた。

「なんで、連中は俺を殺さなかったのかな。」

「不必要に人を殺すのは、馬鹿だけだよ。

俺達の相手は、馬鹿じゃないってことだね。」

香藤はそう言うと、溜息をついてベッド脇の床に膝をついた。

痛々しく腫れた岩城の右頬に手をやると、

岩城は少し笑って見せた。

「大丈夫だ。心配するな。」

「うん・・・かなり手馴れた連中だよ。

プロ、だね。全部なくなってる。

財布も、時計も、カフス・ボタンから、万年筆まで。

車のキーも。」

「そんなことはどうでもいいんだ、香藤。」

岩城は、顔を歪ませながら上体を起こそうとした。

香藤はそれを制して、岩城の頭をそっと、枕に落とした。

「問題は、例のフィルムを奪われたってことだ。」

岩城の顔を見ながら、香藤はためらっていたが、

やがておずおずと咳払いをすると、口を開いた。

「まぁ、カセットが一つなくなった、ってことだね。」

一瞬の戸惑いの後、岩城は香藤を睨みつけた。

「どういうことだ?」

「実はね、岩城さん。あのカセットは、偽物なんだよ。

本物はホテルの金庫に入ってるんだ。」

岩城は思わず上体を起こしかけたが、香藤に押し戻された。

「ごめん。まさか、岩城さんがこんな目に合うとは思ってなくてさ。

連中の、俺に対する疑いを晴らさなきゃいけなかったから。

でないと、動けなかったからさ。ほんとに、ごめんね。」

「いや、いい、わかったよ・・・別に、

こんな目に合うのは初めてじゃないしな。

職業柄、よくあることだ。」

「・・・そうなの?」

香藤は、嫌な顔で横たわる岩城を見つめた。

「当り前だろ。」

「うん・・・まぁそうだけど。でも、やだな、それ。」

「で、疑いは晴れたと思うのか?」

「うん。」

香藤はしばらく黙って俯いていたが、顔を上げると頷いた。

「あれは、ガスタービン・エンジンの設計図なんだ。

俺も自分達と同じ犯罪者だと思うだろうけど、

俺の場合は産業スパイだから、

双方の利益がぶつかることはないよね。

連中は、俺に対する興味を失うってわけ。」

岩城は溜息をついて、香藤を見返した。

「まったく、よく頭が回るな。」

「まぁ、回らない方じゃないと思うけど。」

そう言って、香藤は乱れた岩城の髪をそっと指で整えた。

「特に、痛い目に合うのが俺以外の誰かの場合には、

よく回るみたいだね。」

自分の身体が痛んででもいるような、香藤の顔とその言葉に、

岩城はかすかに眉を潜めた。

黙って立ち上がると、香藤はバスルームへ行き、

蛇口を閉めると、そのまま部屋を出て行った。





次の日の午後、マクガバン・チームのピットで、

マクガバンと、まだ腫れの残る顔の岩城が激しく息を喘がせ、

低い切迫した声で言い争っていた。

マクガバンは、激しい怒りを隠そうともしていなかった。

「しかし、瓶が空になってたんだぞ。

一滴も残ってなかったんだ。

奴を出場させてまた誰かを殺すのを、

黙ってみていろっていうのか?」

「出場をやめさせたら、

新聞記者にその理由を説明しなきゃならないんだよ?

この十年間で、最大の国際的なスキャンダルになってしまうんだ。

香藤はレーサー生命を断たれることになるんだよ。」

「彼のレーサーとしての生命を断たれても、

実際に他のレーサーの生命を奪わせるよりは、ましだろう。」

「2周だけ、回らせてみよう。

もし、トップに立ってたらそのまま続けさせるんだ。

トップなら誰も殺せないんだから。

トップじゃなかったとき、レースを中止させればいい。

新聞記者向けの話は何とかでっち上げよう。

とにかく、昨日も同じだけ酒が入っててどんな記録を出したかは、

憶えてるだろう?」

マクガバンが顔をしかめた。

「昨日は運がよかっただけだ。今日もそうとは限らん。」

「今日はもう、手遅れだよ。」

5,600メートル離れていても、

24台のF1マシーンが加速しながら、

スターティング・グリッドを飛び出していくエンジン音は、

なんとも物凄く、耳が萎縮してしまうような凄まじい、

衝撃的な音が突如として響き渡った。

マクガバンと岩城は、お互いに顔を見合わせ、肩を竦めた。

すでに、ザッキオを引き離して、

最初にグランドスタンド前のストレートを通過したのは、

ライトブルーのマシーンに乗った香藤だった。





「もう、3回もラップ・レコードを出してるわ。」

マギーが嬉しそうに、笑った。

「8週で、ラップ・レコード、3回よ。」

ところが、9週目を過ぎるとマクガバンのピットにいる人々の、

それぞれの表情に表れた気持ちは、がらっと変わっていた。

ジャンセンとエディは、思わず相好が崩れそうになっていたし、

マギーは心配そうに眉をしかめていた。

マクガバンは、怒りに燃えていたが、

その怒りよりも心配の方が強くなっていた。

「40秒も遅れてるんだぞ!

すべてのマシーンが通過したのに、まだ見えても来ない。

いったい、何が起こったんだ?」

「コース・マーシャルのポストに電話してみるかい?」

マクガバンが頷くと、岩城は電話をかけ始めた。

最初の2箇所からは何の情報も得られず、

3箇所目にかけようとしていたところに、

香藤のマシーンが姿を現し、ピットに滑り込んできた。

マシーンのエンジン音は、すこぶる快調だったが、

マシーンから降り立ち、ヘルメットを取ったときの香藤は、

快調とは言えなかった。

その目がどんよりと曇り、血走っていたのだ。

香藤はピットにいる人々をしばらくの間、

見つめていたが、やがて両手を広げた。

その手の震えは、隠しようもなかった。

「すみません。1キロほど行ったところで止めざるを得なかったんです。

物が二重に見えて、

前がほとんど見えないと言ってもいいほどだったんです。」

「着替えろ。」

マクガバンの、冷ややかな荒々しい声は、周りの人々を驚かせた。

「病院へ行くんだ。」

香藤はためらい、何か言いかけたが、

肩をすくめるとマクガバンに背を向け立ち去っていった。

岩城は、マクガバンに近寄り小声で言った。

「コース・ドクターのところへ連れて行くんじゃないだろうね?」

「まさか。友人のところへ連れて行くんだ。

ここでは密かに調べられないからな。」

岩城は穏やかに、悲しげな口調で首を傾げた。

「血液検査かい?」

「そうだよ。」

「それで、F1グランプリのスーパースターも、

一巻の終わりってわけか?」

「その通りだ。」





全てを賭けてきた職業を、奪われようとしているわりに、

病院の廊下の椅子に寛いで座っている香藤は、

奇妙と思えるほど平然としていた。

なんとも珍しいことに、香藤は煙草を吸っていたが、

煙草を挟んだ指先は微動だにしていなかった。

香藤は物思いに耽ってでもいるかのように、

廊下のはずれのドアに、じっと目を向けていた。

そのドアの中では、マクガバンが不信と驚きの入り混じった顔で、

目の前の医者を見つめていた。

「考えられない。そんなことはまったく考えられない。

彼の血液には、まったくアルコールが入っていない、と言うんだな?」

「考えられようと、考えられまいと、私の言ったとおりだよ、ジェームズ。

経験豊かな同僚が、慎重に調べた結果だ。

一生禁酒を続けてきた人の血液中にアルコールがないように、

彼の血液中にも、アルコールはなかったんだ。」

マクガバンは首を振った。

「考えられない。証拠が・・・。」

「私達医者には、考えられないことなんて、何一つないんだ。

あのドアの外にいるような、見るからに強健そのものの青年だと・・・。」

「じゃ、あの目は?」

医者は、少し息をつくと、頷いた。

「あれには、いくつかの理由が考えられる。」

「物が二重に見えるってのは?」

「彼の目は正常に思えるんだが、今どのくらいよく見えているかは、

何ともいえないが、視神経が損傷を受けているかもしれないんでね。

一連の検査をしないと。

ただ、残念だが今日はもう時間がないんだ。

授業に遅れるよ。」

マクガバンは、今夜7時に来れるかとの問いに頷き、

礼を言うと部屋を出た。

香藤に近付いていくと、マクガバンはまずその煙草に目をやり、

次に香藤に視線を戻した。

二人は黙って病院を出ると、マクガバンの車に乗り込み、

モンツァのほうへ走り去った。

香藤がその沈黙を破った。

「病院へ行こうと言った本人としては、医者がなんて言ったか、

俺に話すべきだとは思いませんか?」

「はっきりわからないんだそうだ。

一連の検査をしてみないと。

今夜7時に来いと言っていた。」

マクガバンのそっけない声に、香藤は穏やかに返事を返した。

「その必要はないと思いますけど。」

「それはどういう意味なんだ?」

マクガバンは、ちらっと探るような目を向けた。

「1キロ先に、待避所があります。そこで止めてください。

話したいことがあるんです。」





         続く





        2006年1月8日
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