捻じれたサーキット 12







その晩の7時。

香藤が病院へ行く事になっていた時間に、

岩城はマクガバンの部屋に座っていた。

その場の雰囲気は、まるで葬式のようだった。

二人とも、スコッチの入った大きなグラスを手にしていた。

「驚いた!そんなことを香藤が言ったのかい?

もうお終いだってことがわかってるから、契約を破棄してくれって?」

「そうなんだ。

遠回しに探りを入れるようなことはやめようって言ったんだ。

もう、自分を騙すのはやめたいってな。

あれだけ言うのに、ヨウジはどんなに苦しんだかわからないんだ。」

「で、酒の件は?」

マクガバンは、手にしたグラスのスコッチを飲むと、

悲しげに長い溜息を漏らした。

「それが何とも面白いんだ。

あんなものは大嫌いで、

二度と口にしないで済むのはありがたいって言ったんだ。」

今度は、岩城がグラスを口にする番だった。

「で、香藤はどうなるんだ?言っておくけど、ジェームズ。

君がこのことで苦しんでるのはわかってるんだ。

でも、今は香藤のほうが心配なんだよ。」

「私もだよ、キョウスケ。

しかし、どうすればいいんだ?

いったい、どうすればいいんだ?」





心配の対象になっている当の本人は、不思議なほど平然としていた。

カーレースの歴史始まって以来、

もっとも派手に栄光の座から転落した人物のわりには、

香藤は何とも異常と言えるほど陽気だった。

自分の部屋の鏡の前でネクタイをなおしながら、

香藤は口笛を吹き、

時々、くすくすと思い出し笑いをしていた。

上着を着て、ロビーへ降りていき、

バーでオレンジジュースを貰うと近くのテーブルに腰を下ろした。

まだそれに口をつけないうちに、

マギーがやってくると香藤の傍らに座った。

「ヨウジ!ねぇ、ヨウジ!」

「どうしたんだ?」

「今、パパから聞いたのよ!ヘンリーが・・・」

涙こそ浮んではいなかったが、マギーの声は震えていた。

「ヘンリー?彼がどうかしたの?」

「知ってるのかと思ってたわ。

ヘンリーの心臓がひどく悪いんですって。

今の仕事を続けられないって・・・。」

マギーの頬に、涙が伝わった。

その顔から視線をそらして、香藤は宙を見つめた。

「ヘンリーが?そいつは大変だ。

可哀想に。彼はどうなるのかな?」

「大丈夫だって、パパが言ってたわ。

マルセーユで働いてもらうって。」

「そうか。かえってその方がいいかもしれないよ。

どっち道、ヘンリーにはもう、無理になってきてたんだから。」

香藤はしばらく黙り込んだ。

やがて、顔をあげてマギーに顔を向けた。

「親父さんは、部屋にいるのかい?」

「ええ、いると思うけど。どうして?」

香藤が立ち上がり、マギーも釣られて立ち上がった。

「ちょっとね。」

マギーはそのしっかりとした背中を、不安げに見送った。





1分後、香藤はマクガバンの部屋にいた。

岩城も来ていたが、怒りを抑えるのに苦労しているようだった。

マクガバンは、苦しんでいることが露わに出た顔で、

何度も首を振った。

「絶対にだめだ。事情がどうあろうと、だめと言ったらだめなんだ。

ワールドチャンピオンに、そんなことをさせるなんてとんでもない話だ。

輸送車の運転だって?

ヨーロッパ中の笑い物になってしまうぞ?」

「かもしれませんね。」

香藤は穏やかな声で答えた。

「でも、俺が引退した本当の理由を知られたら、

その倍も笑い物になるんじゃないですか、マクガバンさん。」

「マクガバンさん?!マクガバンさんだって?!

私は常に、君にとってはジェームズなんだ。

そうじゃなかったのか?」

マクガバンは、傷ついた顔で香藤を見つめた。

「もう、そうじゃないんですよ。

物が二重に見えることを説明して、

アドバイザーとして残ることになったといえばいいんですよ。

それ以上自然なことがありますか?

それに、輸送車の運転手が必要なことも、事実なんですよ?」

マクガバンは、ゆっくりと首を振った。

「ヨウジ・カトウにうちの輸送車を運転させるようなことは絶対にしないし、

この話はもうこれで終わりだ。」

マクガバンは、両手で顔を覆った。

香藤が岩城に目を向けると、岩城はドアの方へ顎をしゃくった。

香藤は頷くと黙って出て行った。

岩城はしばらく黙っていたが、

やがて慎重に言葉を選び、感情を交えずに言った。

「じゃ、俺もこれで終わりってわけだね。

さよならを言わせてもらうよ、ジェームズ・マクガバン。

このチームの取材にかかってからずっと、本当に楽しかったよ。

最後の1分を除いてね。」

マクガバンはその顔から両手を離すと、

ゆっくりと顔を上げ岩城を見つめた。

「いったいどういう意味なんだ?」

「こういうことだよ。説明するまでもないと思うけどな。

俺は自分の健康を大事にしてるんだよ。

このチームにいて、あなたがたった今香藤にしたことを思い出すたびに、

むかむかするのがいやなんだ。

彼にとって、自動車レースは生きがいなんだよ?

それ以外にはなんにも知らないんだ。

いまや、この広い世界に香藤の行くところはひとつもないんだよ?

それに、思い出して欲しいんだ。

4年という短い年月の間に、

ほとんど誰も知らなかったチームとマシーンを、

世界でもっとも輝かしい成功をおさめ、

もっとも敬意を払われている、

グランプリ・レーシング・マシーンに仕立て上げたのは、

ほかならぬ香藤のずば抜けた天才的と言ってもいい、

ドライビング・テクニックだってことをね。

それなのに、あなたはたった今、その彼に出て行けと言ったんだ。

マクガバンを、今のように育て上げたのはあなたじゃないんだよ?

香藤なんだ。

でも、あなたとしては戦線から脱落した人間を、

そばに置いとくわけにはいかないんだ。

彼は最早なんの役にもたたないから、捨て去ったってわけだね。

今晩、よく眠れるように祈ってるよ。マクガバンさん。

ま、よく眠れるだろうね。

自分のしたことを誇らしく思う理由が山ほどあるからね。」

岩城はマクガバンに背を向け、立ち去りかけた。

マクガバンは、目に涙を浮かべて穏やかに口を開いた。

「キョウスケ。」

岩城は、ゆっくりと振り返った。

「今度、私にそういう喋り方をしたら、その首をへし折ってやるぞ。

私は疲れてるんだ。疲れきってるから、晩飯の前に一眠りしたいんだ。

ヨウジのところへ行って、マクガバン・チームの仕事なら、

何でも好きな仕事をやるように言ってくれ。

なんなら、私の仕事をかわりにやってくれてもいい、ってね。」

「・・・ずいぶん、失礼なことを言っちゃったね。

許してもらえるかな?

それから、どうもありがとう、ジェームズ。」

岩城は、目を細めてマクガバンを見つめた。

マクガバンは、かすかに微笑を浮かべた。

「マクガバンさん、じゃないのか?」

「ありがとう、ジェームズ、って言ったんだよ。」

二人は微笑をなげかけあい、

岩城は部屋を出ると、静かにドアを閉めた。

ロビーへ降りていくと、口をつけてもいない飲み物を前に、

香藤とマギーが座っていた。

香藤は俯いたまま、マギーが声をかけるのにも返事を返さず、

じっとしていた。

岩城はバーへ行って酒を貰うと、二人のテーブルに行き、

にっこりと笑ってグラスを上げた。

「乾杯。世界一早い輸送車の運転手のために。」

香藤は、しかめた顔を岩城に向けた。

「岩城さん、悪いけど冗談を楽しむような気分じゃないんだよ。」

「ジェームズ・マクガバンは、突如完全にその考えを改めたんだよ。

彼が最後に言ったのは、

ヨウジのところへ行って、マクガバン・チームの仕事なら、

なんでも好きな仕事をやるように言ってくれ。

なんなら、私の仕事を、

かわりにやってくれてもいい、ってことだったよ。」

岩城が楽しそうに答えた。

香藤が首を振ると、岩城はその先を続けた。

「どうしたんだ?お前をかついでる訳じゃないぞ?」

「疑ってるわけじゃないんだよ、岩城さん。

ただ、面食らってるだけなんだ。

いったい、どうやって・・・いや、聞かないでおいた方がいいかもね。」

香藤は薄っすらと笑みを浮かべた。

「マクガバンさんの仕事をやらせてもらいたいとは、思わないな。」

「まぁ、ヨウジ!」

マギーの目には涙が浮んでいたが、それは哀しみの涙ではなかった。

岩城は、満足げに頷いた。

「世界一早い輸送車の運転手へ、長いお別れの挨拶をね、マギー。」

「いったい、何のこと?」

「輸送車は、今夜マルセイユへ向かって出発するんだよ。

誰かが、マルセイユまで運転していかないといけないからね。

そして、それは普通、運転手の仕事なんだ。」

「しまった!そこんとこがどうも、いまひとつピンと来てなかったんだ!

今すぐに?」

「そういうことだな。かなり急いでるらしいんだ。

今すぐに、ジェームズのところへ行った方がいいぞ。」

香藤は頷いて立ち上がり、自分の部屋へ戻って、

黒っぽいズボンにタートルネックのセーター、

皮のジャケットに着替えると、マクガバンの部屋へ行った。

マクガバンは、長々とベッドに横たわっていた。

身体を壊してでもいるかのように、その顔色は悪かった。

「ヨウジ、君に頼むことにしたのは、多分に自分の都合を考えたからだ。

それは認めざるをえないよ。

ランドルフ兄弟は、メカニックとしての腕はいいんだが、

手押し車さえ満足に扱えないんだ。

ジャンセンは、明日の朝手順良く積み込めるように、

すでにマルセイユへ向かってるんだ。

無理は承知の上なんだが、4台目のマシーン、新型のマシーンと、

スペア・エンジンを明日の昼までにヴィニョールの、

テスト・コースに運んで欲しいんだ。

テストは2日間しかないんでね。

眠れたとしてもせいぜい、2・3時間だろう。

大変だってのはわかってるんだが・・・、

6時にはマルセイユで積み込まなきゃならないんだ。」

「結構ですよ。ところで、俺の車はどうしましょうか?」

「そうか。ヨーロッパでただ一人の、

自分のフェラーリを持ってる輸送車の運転手ってわけだな。

キョウスケに私のアストン・マーチンを運転してもらって、

君のは私が明日、ヴィニョールまで転がしていくよ。

そこから、君がマルセイユまで運転して行って、

うちのガレージに置いてくるんだ。

気の毒だが、預けっぱなしって事になるだろうな。」

「わかってます、マクガバンさん。」

マクガバンは、溜息をついて香藤を見あげた。

「またマクガバンさんか。

本当にこんなことをしたいのか、ヨウジ?」

「ええ。ご心配なく。」





香藤が降りていくと、マギーと岩城はもうラウンジにいなかった。

また、部屋へ戻ると、岩城が自分の部屋にいたので、

香藤は頷いた。

「オールド・ボーイに会ったか?」

岩城が口を開いた。

「うん。岩城さんの言うとおり、オールド・ボーイは、

文字通りオールド・ボーイになりかけてるね。

この6ヶ月で、5つも6つも年をとったみたいだ。」

「5つどころか、10、ってとこだろうな。

奥方があんな風に姿を消してしまったんだ。

当り前だろう。」

香藤は微笑を浮かべた。

「今週中には、失った10年を彼に返してやれるよ。」

「・・・お前ほど、信じられないくらい傲慢で、

自信たっぷりな奴っていないんじゃないか?」

香藤が答えないでいると、岩城は少し肩を竦めた。

「まぁ、少しは自信がないとワールド・チャンピオンになんて、

なれないだろうけどね。

で、これからどうするんだ?」

「出発するよ。

出掛けに、ホテルの金庫に預けてある例のものを受け取って、

サン・ピエール街の仲間のところへ届けるんだ。

どうやら、郵便局まで歩いていくよりは、安全らしいからね。

バーで、俺に関心を持ってる奴がいないかどうか、

見ててくれないかな?」

「どうしてお前に関心を持つことがあるんだ?

連中は必要なカセットをもう、持ってるんだぞ。

少なくとも、連中はそう思ってるんだ。」

「そうかもしれないよ。

でも、俺がホテルの金庫に入ってる封筒を受け取って、

その封を切ってフィルムのカセットを調べてポケットに仕舞うのを見たら、

あのとんでもない連中は考えを変えるかもしれないんだ。

一度騙されたことは、連中にもわかってるんだから。

二度騙されたと考えるのに、

そう時間はかからないってことは間違いないんだ。」

しばらくの間、岩城は信じられないといった顔つきで、

香藤を見つめていた。

口を開いた時、岩城の声は囁きと言ってもいいほど、低かった。

「そんなことをしたら、みすみす危ない目にあうだけじゃないか?

棺桶を注文するようなもんだぞ?」

「ワールド・チャンピオン用だから、最高の奴がいいな。

さあ、行こうよ。」





二人は、下へ降りていった。

岩城はバーの方へ向かい、

香藤はフロントへ行った。

岩城がロビーに目を走らせていると、

香藤は封筒を受け取り、それを開けてカセットを取り出し、

慎重に調べてから皮のジャケットの内ポケットに仕舞った。

香藤がフロントに背を向けると、

岩城がさりげなく近付き、低い声で言った。

「ザッキオだ。目玉が飛び出すんじゃないかと思うくらいだったよ。

近くの電話室へすっ飛んで行ったんだ。

苦労して走らないようにはしてたけどな。」

香藤は頷くと、何も言わずに玄関を出て行った。

その香藤の前に、人影が立った。

「こんなところで何をしてるんだい、マギー?」

「さよならを言いたかったのよ、それだけ。」

「中でだって言えただろう?それに、ヴィニョールで明日会えるし。」

「ほんとに会える?ヨウジ?ほんとに?」

香藤は舌を鳴らすと、頭を掻いた。

「俺にも、車の運転くらい出来るんだって信じない奴が、

ここにもいたってわけだね。」

「茶化さないで、ヨウジ。そんな気分じゃないの。

なんだか嫌な気分なのよ。

何か起きそうな嫌な予感がするの。」

香藤は明るく言った。

「それは君にスコットランドの血が混じってるからだよ。

迷信深い血がね。

いくらかでも慰めになるかもしれないから言うけど、

そういう予言って言うのは、

まず100パーセント当たらないっていう記録があるんだよ。」

マギーは、泣きだしそうな顔をして香藤を見つめた。

「ふざけないで、ヨウジ。」

「ふざけてなんか、いないよ。」

マギーが、唇を噛んで俯いた。

その顔を、香藤は眉を少ししかめて見ていた。

香藤のことが好きだと、伝わってくるマギーの瞳。

それに、答えられないまま香藤は、

背を向けて次第に濃くなる闇の中へ消えて行った。







       続く




     2006年1月27日







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