捻じれたサーキット 14








ジャンセンが言っていたとおり、角を曲がったところにある家は、

たいした家ではなかったが、寝るくらいの役にはたちそうだった。

香藤は家具らしい家具もない部屋の、壁際に置かれた椅子に座った。

床には磨り減った絨毯が敷かれていた。

狭いベッドがあるのを別にすれば、

その他にはサイドテーブル代わりの椅子が一脚、あるだけだった。

一階にあるその寝室の窓にはカーテンがなく、

薄い網のような布がかかっていた。

部屋の灯りは消えていたが、

薄暗い街頭の光で部屋の中もいくらか明るかった。

香藤はカーテン代わりの布を少し片寄せて外を覗いた。

うらぶれた狭い通りには、まったく人影が見当たらなかった。

香藤はちらっと時計に目をやった。

夜光塗料を塗った針は、2時15分を指していた。

突如、香藤は首を傾げてじっと耳をすませた。

気のせいかもしれなかったが、香藤の耳に入った音は、

外の廊下を歩く微かな足音のようだった。

音を立てずに、香藤はベッドへ近付き、横になった。

香藤の手が枕の下に延び、ブラックジャック・ナイフを取り出した。

そして、右の手首にストラップをかけると、右手をまた枕の下に戻した。

音もなくドアが開いた。

深く、規則的に息をしながら、香藤は少し目を開けた。

ドアのところに人影が浮かび上がっていたが、

それが誰かまではわからなかった。

香藤は安心しきってぐっすりと眠っている振りを続けた。

2、3秒後、侵入者が開けた時と同様にそっとドアを閉めた。

香藤の研ぎ澄まされた聴覚は、低い足音が遠ざかっていくのを、

はっきりと聞き取ることが出来た。

香藤は上体を起こすと、考えがまとまらないまま、顎をなでていたが、

やがてベッドから出ると、窓際の外が見えるところに立った。

一人の男、と言っても、

今度はそれがジャンセンだということがわかる男が、

家から出てきたところだった。

ジャンセンが通りを横切っていくと、黒っぽい小さなルノーが、

角を曲がってほぼ真向かいに止まった。

ジャンセンがかがみこんで運転していた男に何かいうと、

男はドアを開けて車から降りた。

男は黒っぽいジャケットを脱ぐときちんと畳んで後部座席に置き、

ジャンセンに向かって頷いた。

ジャンセンが立ち去り、男は通りを渡りはじめた。

香藤はまたベッドにもぐりこむと、ブラックジャックを握った右手を、

枕の下に突っ込み、

窓の方を向いて目を微かに開けたまま、横たわっていた。

待つほどのことも無く、窓にぼんやりと人影が浮かび上がり、

室内を覗き込んだが、薄暗い街灯を背にしていたので、

顔立ちまではわからなかった。

男は右手を上げると、そこに握られているものを調べた。

それがなんであるかは、はっきりと見て取れた。

見るからにぞっとするような大型のピストルで、

香藤が見守っていると、男は脇に付いている安全装置をはずした。

銃口の先には丸い円筒形のものがはめられていることに、

香藤が気付いたのは、その時だった。

それは、明らかにサイレンサーだった。

男の姿が消えると、香藤はすばやくベッドから出た。

部屋を横切ると、ドアの蝶番の付いている方の側から、

2メートルほど離れた壁際に立った。

香藤ですら、いささか神経にこたえるように感じた、

長い10秒ほどの間、あたりはまったく静まり返っていた。

少しして、外の廊下の床板が辛うじて聞き取れるほどの、

微かにきしむ音が聞こえてきた。

ドアノブがひそかに押し下げられ、

まったく軋むことなく静かに開き始めるとともに、

ゆっくりとまた元に戻った。

ドアと脇の柱の間の隙間次第に大きくなり、

ついに10センチほどになった。

しばらくの間、ドアの動きが止まった。

その隙間から、慎重に頭が覗き始めた。

侵入者は痩せた浅黒い顔をして、

黒い髪を撫で付け、口ひげを蓄えていた。

香藤は左脚に体重をかけて右脚を上げると、

その踵で前もって鍵を抜いておいた鍵穴のすぐ下を蹴りつけた。

あまりの痛さに男は思わず、うなり声を上げた。

香藤はさっとドアを大きく開けると、背が低く、やせぎすで、

ダーク・スーツを着た男が部屋へ転がり込んできた。

右手にまだ銃を握ったまま、両手を顔の真ん中の血にまみれ、

ひしゃげたあたりに当てている。

鼻の骨が折れていることは明らかだった。

それを見ても、香藤の顔には、

同情の色などまったく浮んではいなかった。

香藤はブラックジャックを振り上げると、

侵入者の右耳の上に叩き込んだ。

うめき声を漏らしながら、男はくずおれるように跪いた。

香藤は何の抵抗もしないその手から、銃を奪い取ると、

開いているほうの手で、男の身体をさぐった。

鞘に入ったナイフがベルトに挟んであるのを見つけると、

それを抜き取った。

慎重に香藤はそれを革のジャケットの外のポケットに滑り込ませたが、

考えを変えてそれを取り出して、銃を仕舞い、

べたついた黒い髪を掴んで容赦なく立ち上がらせた。

ついで、同じように容赦なく、肌に達したことがわかるまで、

男の背中にナイフを突きつけた。

「外へ出ろ。」

ナイフを背中に押し付けている手に、

じわじわと力が加えられていたので、

香藤を殺しにやってきた男は、言われたとおりにするしかなかった。

二人の男は家を出ると、人通りの途絶えた通りを横切り、

小さな黒いルノーの方へ向かった。

香藤は男を運転席に押し込み、自分は後の席に座った。

「運転しろ。警察へ行くんだ。」

「とても無理だ。」

香藤はブラックジャックを取り出すと、

ほぼ前の時と同じ力で男を殴りつけ、

男は、ぐったりとハンドルに凭れかかった。

「運転しろ、警察へ行くんだ。三度も同じことは言わせるな。」






男は辛うじて保っている意識で、

ハンカチを持った片手で鼻を押さえながら、片手で運転した。

それは、それまで香藤が経験した中で、

もっとも危険なドライブだった。

香藤は半ば意識を失いかけた男を抱えるようにして、

警察へ入っていくと、

どさっとベンチに座らせてから、受付へ行った。

受付には、大柄でがっしりとした、

見たところ温厚そうな制服の警官が二人いた。

二人の警官は、驚くと同時に、かなりの好奇心で、

ベンチで完全にぐったりとしている状態の男を、じろじろと眺めていた。

「あの男を告訴したいんですが。」

香藤がそういうと、警官は穏やかに答えた。

「あの男が、あなたを告訴すると言った方が、

当たっているように見えますがね。」

「身元を保証するものがいるでしょう?」

香藤はパスポートと、運転免許証を取り出したが、

警官はそれを見ようともしないで、手を振った。

「警察にだって、あなたの顔はヨーロッパのいかなる犯罪者の顔よりも、

よく知られてるんですよ、カトウさん。

でもあなたの得意なスポーツはボクシングじゃなくて、

カーレースだと思ってましたが。」

興味深かげにイタリア人を眺めていたもう一人の警官が、振り返った。

「こいつは、驚きだ。古い馴染みのサンドロじゃないか。

手癖の悪いので有名な。ちょっと見たんじゃ、わからないが。」

彼は香藤に目を向けると、親指でその男を示した。

「どうしてこんな男と知り合ったんです?」

「訪ねてきたんですよ。

ちょっと暴力を振るったことは、申し訳なかったんですが。」

「謝ることなんてないんですよ、カトウさん。

こいつは出来れば週に1度ずつでも殴られればいいんですよ。

で、ここまでやる必要があったんですか?」

香藤は何も言わずにナイフと銃をボケットから取り出し、

デスクの上に置いた。

「いろいろと、前科があるから、最低5年はくらいこむでしょうね。

もちろん、告訴なさるんでしょう?」

警官が頷いて聞いた。

「よろしくお願いします。

急を要する用事があるので、また後で顔を出します。

ところで、サンドロは何かを盗みに来たんじゃないと思うんです。

俺を殺しにきたんだと思うんですが、

誰がよこしたのかを知りたいんですが。」

「それは調べられると思いますよ、カトウさん。」

警官は凄みのある顔をして考え込んでいるようだったが、

サンドロにとっては不吉な前兆だった。

香藤は礼を言って警察を出ると、ルノーに乗って走り去っていった。






例の家から警察まで、サンドロが運転したときは10分かかったが、

香藤は5分足らずで家の前を通過し、

その30秒後にはマクガバンのガレージの、

大きなシャッターから50メートルほど手前に車を止めていた。

シャッターは下りていたが、その両側から明かりが漏れていた。

15分後、香藤は身体を強張らせて身を乗り出した。

大きなシャッターに取り付けられた、

小さなドアが開いて4人の男が出てきた。

通りの暗い街灯の光でも、そのうちの3人がジャンセンとヴィリと、

ザッキオだということは苦もなくわかった。

4人目の男は、香藤の見たことのない男だった。

おそらく、メカニックの一人だろう。

ジャンセンはドアを閉めて鍵をかけるのを3人の男達に任せると、

家のほうに向かって足早に歩き始めた。

通りの反対側を通り過ぎたときも、

ジャンセンは香藤のほうを見ようともしなかった。

3人の男達はドアに鍵をかけると、

シトロエンに乗り込んで走り去っていった。

香藤の車はライトもつけずに道端を離れると、その後を追った。

それはいかなる意味でも追跡などというものではなく、

ただ2台の車がゆっくりと郊外を走っているというだけで、

後からつけていく車は、時によってその距離こそ違え、

常に慎重に間を置いていた。

一度だけパトカーが近付いてくるのが見えた時に、

香藤は前の車のと距離をぐっと離し、ライトをつけたが、

その距離をまた縮めるのは、簡単なことだった。

結局、2台の車は一見して高級住宅地だとわかる地域の、

かなり広い並木道に出た。

高いレンガ塀の奥に隠れて、大邸宅が両側に並んでいる。

シトロエンは角を曲がった。

15秒後、香藤は同じ角を曲がると、すぐにライトを点けた。

150メートルほど先で、シトロエンが1軒の屋敷の前でとまると、

ザッキオが降りて鍵を手に門の方へ近付いていた。

香藤がとまっている車を追い越すために道路の左側に出ると、

門が開くのが目に入った。

香藤は最初の通りを曲がると、ルノーをとめた。

車から降りると、サンドロが残していったジャケットを着て、襟を立てた。

香藤は角にエディット・ピアフ通りという標識の出ている並木道へ戻ると、

その通りをシトロエンが入っていった屋敷の前まで戻った。

その屋敷には、「隠者の里」という名前がついていた。

門の両側に続く塀は、高さが少なくとも5メートルはあり、

上端にはびんの破片が埋め込んであった。

門も同じ高さで、

上部には非常に鋭い忍び返しらしきものがついているのが見えた。

屋敷自体は門から20メートルほど入ったところに建っていて、

バルコニーがたくさんあり、だだっ広く古めかしい様式のものだった。

上の階も下の階も、カーテンの隙間から明かりが漏れていた。

慎重に、香藤は門を押してみたが、鍵がかかっていた。

左右に目を走らせて、並木道に人影がないことを確かめると、

香藤はかなり大きな鍵の束を取り出した。

そして、まず錠前を調べ、次いで鍵を調べると、

そのうちの一つを選び、開けてみた。

最初の鍵で、門は開いた。

香藤は鍵束をポケットに仕舞うと、立ち去っていった。






15分後、香藤は路地と言ってもいいような、

何の変哲もない狭い通りに車を止めた。

そして、玄関へ通じる階段を昇っていったが、

ノックする必要もなければ、呼び鈴を鳴らす必要もなかった。

いきなり玄関が開いて、

ガウンを着た灰色の髪の初老の男が香藤を招き入れた。

その男が香藤を案内した部屋は、

電子工学の研究室と写真家の現像室が、

一緒くたになったような部屋だった。

男は手を振って香藤に椅子を勧めた。

「キョウスケ・イワキが前もって知らせてきてくれてはいたんだが、

それにしてもなんとも迷惑な時間に来てくれたもんだね、ヨウジ・カトウ。

ま、座ってくれ。」

「なんとも厄介なことに出くわしたんでね、ジャン・ポール。

座ってる暇はないんだ。」

香藤はフィルムのカセットを手渡した。

「それを現像して、それぞれを引き伸ばすのにどれくらいかかる?」

「何枚だ?」

「60コマだよ。」

「今日の午後には。」

「ミシェルは町にいるのかい?」

ジャン・ポールは思わず舌を鳴らした。

「暗号か?」

香藤が頷くと、ジャン・ポールは続けた。

「いるよ。当たってみてやるよ。」

香藤はジャン・ポールの家を出た。

例の家に引き上げる途中、ジャンセンのことについて考えた。

あの家へ戻ると、ジャンセンはまず、

香藤の部屋を調べただろうことは、間違いなかった。

香藤がいなくなっていても、ジャンセンはまったく驚かなかっただろう。

ちゃんとした殺し屋は、雇い主の部屋の隣に、

死体を残しておいて巻き添えにするようなことは、しないものなのだ。

マルセーユの市内や周辺にはいくらでも運河や海があり、

探すべきところさえ知っていれば、

錘を見つけるのもそう大変ではなかったし、

サンドロはそう遠くまで探しに行かないでもすむ男、

という印象を持っていた。

今、香藤に会っても約束の朝6時に会っても、

ジャンセンは軽い心臓発作を起こすだろう。

しかし、朝6時まで香藤に会わないでいたら、

香藤はその時間までどこかへ行っていたものと考えて、

夜も眠らずに何をしていたのかと懸命になって考えるに違いなかった。

それなら、今、ジャンセンに会っておいたほうが良さそうだった。

結局、香藤はそうするほかなかった。

彼が家に入っていくと、ジャンセンが、

丁度出かけようとしているところだったのだ。

香藤は二つのものを興味深く眺めた。

ひとつは、ジャンセンの手からぶら下がっている、たくさんの鍵。

もうひとつは、その顔だった。

ぎょっとしていることがありありとわかる顔で、

無理からぬことだったが、

香藤の幽霊が現れたと思ったに違いなかった。

が、ジャンセンも強かな男だったので、即座に、とは言えないまでも、

見事というほかないほど、短時間の内に立ち直った。

「今は、朝の4時なんだぞ!いったい、どこへ行ってたんだ?」

その無理に搾り出したかのような大きな声に、

ジャンセンのショックが滲み出ていた。

「あんたは、俺の番人じゃないんだよ、ジャンセン。」

「いや、番人なんだよ、ヨウジ。今は、私がボスなんだ。

1時間もあんたを待ってたんだぞ。

警察に連絡しようと思ってたんだ。」

「連絡してたら、面白かったのに。

俺はその警察から帰ってきたとこなんだ。」

「警察から?いったいどういう意味なんだ?」

「言ったとおりだよ。殺し屋を警察に引き渡してきたとこなんだ。

銃とナイフをもって、俺を訪ねてきた若者をね。

あんまり手際は良くなかったよ。今頃は、ベッドに寝てるだろう。

厳重に警官に見張られながら、病院のベッドにね。」

「中へ入れ。もっと詳しく話を聞かせて欲しいんだ。」

香藤はその夜の活躍のうち、

ジャンセンに知られてもいいと思えることだけを話した。

「とにかく、くたくただよ。横になったらたちまち寝ちゃうだろうな。」

香藤は簡素な寝室に戻ると、窓際に立って外を見た。

3分もしないうちに、ジャンセンが、通りに姿を現した。

おそらくマクガバンのガレージに行ったのだろう。

ジャンセンが何を企んでいるかは、

さしあたって香藤にはわからなかったし、

気にもしていなかった。

香藤はメカニックの宿舎を出ると、

サンドロのルノーに乗り込んでジャンセンとは反対の方向へ走り去った。

そして、4ブロックほど走ると、狭い路地に車を乗り入れて、

内側からドアに鍵がかかっていることを確かめ、

腕時計の目覚ましを5時45分にかけて短い眠りを貪る体勢を整えた。

あのメカニックの宿舎に、

どうしても疲れた頭を横たえる気になれなかったのだが、

香藤のその嫌悪感は激しかった。







         続く





       2006年3月19日






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