捻じれたサーキット 16







香藤が車を乗りつけたのは、警察だった。

早朝、まだ夜が明けていないうちに訪れた時にいた警官が、

勤務についていた。

その愛想の良さは、跡形もなく、ひどくがっくりしていた。

「サンドロは、どうしてます?」

警官は悲しげに首を振った。

「残念なことに、吐こうにも吐けなくなったんですよ。」

「と、言うと?」

「薬があわなかったんでしょうな。

痛むって言うんで、鎮痛剤を飲ませてたんですがね。

間抜けどもが言ったんですが。」

「間抜けども?」

「ついてた警官達ですよ。

ブロンドの看護師が錠剤を持ってきて、

正午に飲むようにって頼んだんです。」

「その薬は、なんだったんです?」

「青酸カリです。」






香藤がヴィニョールの廃屋となった農家の庭に車を止めたのは、

午後も遅くなってからだった。

何も入っていない納屋の扉が開いていた。

香藤はフェラーリを納屋に乗り入れると、エンジンを切って、

薄暗がりに目を慣らそうとしながら降り立った。

まだ、目が慣れないうちに、ストッキングで覆面した男が姿を現した。

銃を取り出す間もなく、香藤は身体を前に投げ出すと、

男が振り回している棍棒の下に飛び込み、

襲い掛かってきた男の胸骨のすぐ下に肩を叩き込んだ。

相手は、肺から全ての空気を押し出され、

あまりの苦しさに息を喘がせながら後へよろめくと、

香藤を上に乗せたまま、床へ倒れた。

香藤は片手で男の喉を締め上げながら、

開いているほうの手を銃へのばした。

が、ポケットから銃を取り出すことは出来なかった。

背後で、微かに物音がしたのを聞きつけて振り返ると、

別の覆面をした男が棍棒を振り下ろしているのが目に入った。

次の瞬間には、額の右側とこめかみを、凄まじい勢いで殴られていた。

香藤はうめき声も漏らさずに、ぐったりと倒れこんだ。






香藤がゆっくりと意識を快復し始めたのは、

納屋の中がかなり暗くなってからだった。

もそもそと身体を動かし、うめき声を漏らすと、

両腕を突っ張って、おぼつかなげに肩と身体を床から離した。

「・・・くっ・・・そっ・・・。」

しばらくの間、そのままの姿勢でいたが、

やがて渾身の力をふりしぼってよろめきながら立ち上がると、

ふらつきながらその場に立っていた。

1、2分すると、何よりもまず本能的に納屋を出て、

途中で何度か転びながら庭を横切り、覚束ない足取りで歩き始めた。






雨はすでにやんでいた。

岩城が食堂を出て、シャレーの方へ歩いていくと、

50メートルほど先を、

酔ったようにふらつきながら歩いてくる男の姿が目に入った。

一瞬、岩城は石にでもなったかのように、

身じろぎ一つしないで、その場に立ち止まった。

ついで、もの凄い勢いで走り出し、岩城は香藤に駆け寄った。

肩に腕を回して支え、痛めつけられた顔をじっと見つめた。

額が、ぱっくりと口を開け、アザになっていた。

顔の右半分がまだにじみ出ている血で、べっとりと覆われていた。

「・・・なんてことだ!」

岩城は意識を失いかけてふらついている香藤を、

半ば抱えるようにして階段を昇り、シャレーのホールに入っていった。

ちょうどその時、マギーがホールへ出てくると、

小さな声で悪態をついた。

ほんの僅かな間、マギーは青ざめた顔に目を大きく見開いて、

立ち尽くしていたが、やがて、辛うじて聞き取れるほどの声を発した。

「ヨウジ、ヨウジ、いったい、何をされたの?」

マギーは手を伸ばすと、香藤の血まみれの顔に触れたが、

涙がその頬を流れ落ちるとともに、がくがくと震えだした。

「泣いてるときじゃないんだ、マギー。」

岩城はわざと、てきぱきとした口調で言った。

「ぬるま湯とタオル。そのあとで、救急箱を持ってきてくれ。

絶対に、親父さんには言わないこと。わかったね?

俺達は、ラウンジにいるから。」






5分後、ラウンジの香藤の足元には、

血で赤く染まった水の入った洗面器と、

血で汚れたタオルが置かれていた。

香藤の顔から綺麗に血が洗い流されていたが、

そのために口を開けた傷とアザが、くっきりと見えていた。

「・・・痛いよ、岩城さん。」

「当り前だ。ちょっと我慢してろ。」

顔を顰める香藤に、岩城は容赦なく消毒液をつけて、

傷口を絆創膏で止めていた。

香藤は、ソファの背に凭れかかると、口を開いた。

「岩城さんも、俺も、写真を撮っといたほうが良さそうだね。

どっちがひどい顔してる?」

「お前、こんな時によくそんなことが言えるな。」

岩城は呆れながら、その香藤の冗談に頭の方は大丈夫だと安心した。

「まぁ、大体同じような顔だな。」

「そっか。これで、一線に並んだってとこだね。」

「やめて、お願いだからやめて。」

マギーは、泣きながら口を開いた。

「ヨウジは怪我をしてるのよ?お医者様を呼んでくるわ。」

「とんでもない。」

香藤の声から、ふざけているような響きが消えた。

「医者はいらない。縫うのもあとだよ。今夜はだめだ。」

マギーは香藤が手にしている、ブランデーのブラスをじっと見つめた。

その手は、まったくと言っていいほど、震えてはいなかった。

「私達みんなを騙してたのね?

神経をすり減らして手ががくがく震えるワールド・チャンピオン。

ずっと騙してたのね、そうでしょ、ヨウジ?」

「そうだよ。すまないけど、席をはずしてくれないかな、マギー。」

「誰にも言わないって誓うわ。パパにも喋らないって。」

「席をはずして。」

香藤は視線を固定させて、繰り返した。

「まぁ、いいだろう。」

岩城がマギーを振り返って見つめた。

「いいかい、マギー。親父さんには、内緒だよ。」

「絶対に、言わないわ。」

答えるマギーに、岩城は香藤に向き直って、静かに言った。

「香藤、お前は今日二度目の警告ってわけだ。

兄弟のメカニックが姿を消したんだ。」

香藤の顔には、何の反応も見えなかった。

「その時、二人は輸送車で仕事をしてたんだね。」

「そうだが・・・いったい、どうしてそんなことを知ってるんだ?」

「南側の格納庫で、ジャンセンと一緒に。」

岩城はゆっくりと頷いた。

「あの二人は、余計なことを見すぎたんだよ。

頭がまわるほうじゃないから、偶然だろうけど。

でもとにかく、見すぎたんだ。

ジャンセンはなんて言ってる?」

「お茶でも飲みに行ったんだが、40分たっても戻ってこないんで、

探しに行ったんだそうだ。

そうしたら、消えてたって言うんだ。」

「二人は食堂に現れたの?」

岩城は、首を振った。

「じゃぁ、もしあの二人が見つかったとしても、

どこかの谷底か運河の底だろうな。

マクガバン・チームのガレージで働いてた二人を憶えてる?」

「ああ。それが?」

「あの二人はホームシックにかかって、

出て行ったってジャンセンは言ったんだ。

確かに、行っちゃったんだけど、それは兄弟と同じところへなんだよ。

その後、二人を雇ったけど、一人が姿を現さなかったんだ。

真夜中に俺が警察へ送り込んだから。

まだ、証拠はないけど、掴んでやるよ。」

岩城は黙ってそれを聞いていたが、

マギーはとても信じられないと、

恐怖の色を浮かべて香藤を見つめていた。

「ごめんよ、マギー。ジャンセンは人殺しなんだ。

自分の利益のためなら、何でもやるんだよ。

今シーズンの最初で、義弟が死んだのも、奴の仕業なんだ。

それで、岩城さんを手伝う気になったんだよ。」

マギーは、二人を交互に見つめた。

「あなたが、キョウスケを手伝う?ジャーナリストを?」

香藤はマギーの言葉が耳に入らなかったように続けた。

「奴はフランス・グランプリのときに、俺を殺そうとしたんだ。

その証拠は写真に撮ってある。

イザクが死んだのも、奴のせいだ。

昨夜も警察の非常線を装って俺を殺そうとしたし。

で、今日、マルセーユである男を片付けてるんだ。」

「誰を?」

岩城が穏やかに言った。

「サンドロって男だよ。

奴が警察にいるのを知ってるのは、ジャンセンだけだったんだ。

俺がいけなかったんだ。奴に喋っちゃったんだよ。

あの時は、どうしようもなくてさ。」

「信じられないわ。こんなの、まるで悪夢だわ。」

マギーはすっかり途惑っていた。

「ジャンセンには、絶対に近寄っちゃダメだよ、マギー。

たちまち君の顔色を読んでしまうからね。」

話をしながら、香藤はポケットの中を探った。

「綺麗になくなってるね。何一つ残ってないや。

車のキーはスペアがあるけど、マスターキーも無くなってる。

ってことは、ロープと、フックがいるね・・・。」

「あなた、まさか・・・今夜また出かけるなんて無理よ!

ほんとなら、入院しないといけないのに!」

香藤はちらっと、マギーに視線を向けると、さらに続けた。

「それから、金も少しね。」

香藤は立ち上がると、すばやく、

足音を立てないようにドアに近付き、さっと開けた。

エディが、よたよたと転がり込んできた。

香藤がその髪をつかんで身体を引き起こした。

「俺の顔を見てみろ、エディ。」

香藤の顔を見ると、エディは思わずたじろぎ、

その顔から血の気が引いていった。

「こんなことになったのは、君のせいなんだぞ。」

突然、何の警告もなしに香藤はエディの頬を引っぱたいた。

「ヨウジ!ヨウジ!気でも狂っちゃったの?!やめて!」

繰り返し、エディの頬を叩く香藤に、

マギーは飛びかかっていこうとしたが、

岩城の手がそれを阻んだ。

岩城は、その意外な成り行きにも平然としているようだった。

「いつまでも、引っ叩き続けてあげるよ、エディ。

俺と同じくらいその顔が痛くなるまでね。」

エディは、抵抗しようとしなかった。

やがて、もう十分に骨身にしみただろうと思われるころ、

香藤は叩く手を止めた。

「聞きたいことがあるんだ。本当のことを言うんだぞ。

今日の午後、君は岩城さんと俺の話を盗み聞きしたな?」

「してないよ!ほんとにしてないよ!」

それに答えたエディの声は、震えていた。

香藤がまた引っ叩きはじめると、

エディは悲鳴を上げて言葉を切った。

しばらくして、香藤はまた、手を止めた。

マギーは岩城にしっかりと抑えられたまま、

恐怖のあまり呆然としていた。

「俺を痛めつけた奴らは、

俺が重要な写真を調べにマルセーユへ行ったことも、

俺が車をこの少し先にある空き家の納屋に止めてることも、

知ってたんだ。

俺以外でそれを知ってるのは、岩城さんだけなんだ。

彼が喋ったんだと思うか?」

「もしかしたらね。」

姉の頬と同じように、エディの頬も涙が溢れていた。

「わからないよ。でも、そうだよ、彼が喋ったのかもしれないよ。」

香藤はゆっくりと喋りながら、

その合い間に、エディの頬を音を立てて叩いた。

「岩城さんは、ジャーナリストじゃないんだ。

彼は、スコットランドヤードの幹部で、国際刑事警察機構の一員で、

君を何年か少年院にぶち込むだけの証拠を持ってるんだよ。

君が犯人を助けて、そそのかしたって言う証拠をね。」

香藤は髪を掴んでいた手を話すと、繰り返した。

「誰に話したんだ、エディ?」

「ザッキオだよ。」

香藤がエディを椅子に座らせると、

彼は両手で腫れあがった頬を挟んで背中を丸めた。

「ザッキオは、どこにいるの、岩城さん?」

香藤は岩城を振り返った。

「マルセイユだ。ヴィリと一緒にな。」

「奴もここに来てたのか。

まぁ、そうだろうね。で、ジャンセンは?」

「自分の車で出かけたよ。

ランドルフ兄弟を探しに行くって言ってね。」

「部屋へ戻って車のスペア・キーを持ってくるよ。」

香藤はマギーとエディに視線を向けた。

「二人とも、部屋へ戻るんだ。

マギー、エディを外へ出さないようにね。」

岩城が、少し眉をひそめて香藤を見つめた。

「もうひとつ、銃があったよね、岩城さん?」

「ああ、ある。持って行くか?」

「いや、いいよ。それは岩城さんの護身用でしょ?」

「まぁ、そうだが。」

「金だけ用意してて。」

香藤はそう言って部屋を出て行った。

エディとマギーも立ち上がると、

岩城はポケットからハンカチを出して、マギーの頬を拭った。

「あなたは、ヨウジが言ったとおりの人なの?」

「そうだよ。」

「じゃ、ヨウジを止めて。お願い。」

岩城は、困った顔で肩を竦めた。

「ヨウジが追い詰めようとしてるのは、ザッキオなんでしょ?」

「正確には、そのうちの1人、だね。

香藤は大勢の犯人を追い詰めようとしてるんだよ。

でも、香藤が本当に追い詰めたいのは、ジャンセンなんだ。」

「どうしてなの?」

「香藤には、

個人的にジャンセンの息の根を止めたい理由があるんだ。」

「弟さんのことね。」

マギーは少しの間、黙り込んだ。

「ヨウジは、それだけのために、

危険なことをしようとしてるんじゃないと思うわ。」

岩城はマギーの顔を覗き込んだ。

「自分のためだけじゃない気がするの。」

「なぜ、そんな風に思うんだい?」

「ヨウジは、私に好きな人がいるって言ったの。

それが誰だかは教えてくれなかったけど。」

岩城が少し息を吐いて、マギーを見つめた。

「キョウスケは、知らない?ヨウジの好きな人って誰なのか。」

そう聞かれて、岩城はゆっくりと首を振った。

「さぁ、聞いたことがないんだ。君から聞いたのが、初めてだよ。」

「そう。」

気がついたようにエディを振り返り、

岩城は二人を部屋まで連れて行き、

外へ出ないように念を押して、自分の部屋へ戻った。






その頃、香藤はジャン・ポールを訪れていた。

「あんたは、相変わらずとんでもない時間に来るな。」

ジャン・ポールは、ひどい顔の香藤を見つめて、肩を竦めた。

「で、何が必要なんだ?」

「銃を。サイレンサーも欲しいな。」

香藤の穏やかな声に、ジャン・ポールは黙り込んだ。

「それは、キョウスケは知ってるのか?」

「知らないよ。彼には、黙ってて欲しいんだ。」

しばらくの間、香藤を見つめていたジャン・ポールは、

肩を一度揺すって頷いた。

「わかった。ただし、条件がある。」

「なに?」

「あんたのサインが欲しいんだ、ワールド・チャンピオン。」

一旦しかめた眉が、晴れやかに開いた。

「そんなのでよければ、何枚でも書くよ。」






戻ってきた香藤は、岩城から金を受け取った。

「一人で大丈夫か?」

岩城の声に、香藤は頷いた。

それをジャケットの内ポケットに捻じ込むと、

香藤は椅子から立ち上がった。






      続く





    2006年3月28日
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