捻じれたサーキット 20







泳げないと言った男とは思えないくらいに、

ザッキオは水を切り裂いていった。

桟橋の階段に泳ぎつくと、這うようにして桟橋に上がり、

公衆電話に向かった。

そして、ヴィニョールへ電話をかけた。

ザッキオは、その晩の出来事をジャンセンに伝えた。

「俺達はみんな、あのろくでなしにしてやられたんだよ。」

ベッドに座ったジャンセンの顔は、怒りで強張っていた。

「まだ、諦めるのは早いんだ。

我々はとっておきの切り札を失ったってわけだ。

なら、もう一枚の切り札を手に入れないといけないんだ。

わかるか?1時間後に、トゥーロンで会おう。いつものとこだ。」

「パスポートは?」

「いるな。」

「ナイトテーブルの引出だ。

それに、頼むから乾いた服を一通り持ってきてくれ。

夜が明ける前に、肺炎を起こしちまうよ。」





ザッキオは、電話ボックスを出た。

桟橋へ戻り、木箱や樽の間で、

ロイス号を監視していられる場所を探している内に、

ザッキオはぐったりと横たわっているトニーに躓いた。

「驚いたな。こんなところにいたのか。」

縛り上げられ、口を塞がれた男は、

訴えるようにザッキオを見上げた。

ザッキオは、トニーの脇に屈みこんで首を振った。

「すまないが、まだ解いてやるわけにはいかないんだ。

俺は泳いで逃げてきたんだ。

あいつらは、もうすぐ上陸して来るんだよ。

香藤は、まだお前がここにいるか、確かめに来るかもしれないんだ。

お前がいなくなってたら、大騒ぎを始めるだろう。

連中が上陸して立ち去ったら、解いてやるから。

そしたら、ロイス号へ行って、書類を全部持ち出すんだ。

あれを警察に持って行かれたら、えらいことになるからな。」

トニーは、面白くもなさそうに頷くと、港の方へ顔を向けた。

ザッキオが、頷いた。

ボートのエンジン音が響いていた。

間もなく、船首を回ってボートが姿を現した。

ザッキオは、慎重に2、30メートル離れたところまで下がった。

ボートが階段の下に横付けになると、

エディが舫綱を手に、最初に降りてきた。

ボートを繋ぐと、香藤はシーラに手を貸して上陸させ、

ついで、彼女のスーツケースを持ってその後に続いた。

香藤のもう一方の手には、銃が握られていた。

ザッキオは、暗がりで香藤を待ち伏せようかと考えたが、

すぐにそれを放棄した。

香藤がいい加減にことを運ぶことをせず、

必要とあれば発砲するだけではなく、

平然と殺すつもりで撃つだろうとザッキオは、判断した。

香藤はまっすぐにトニーの横たわっているところへ行くと、屈みこんだ。

「まぁ、もつだろうね。」

と呟いて起き上がった。

3人は道路を横切って最寄の公衆電話、

ということはザッキオが少し前に遣った同じ電話へ行くと、

香藤が中に入った。

ザッキオは、樽や木箱の陰伝いに足音を忍ばせて、

トニーのところへ行った。

ナイフを取り出すと、麻紐を切った。

トニーは身体を起こして座った。

あまりの痛さに、顔をしかめて手と、手首を摩った。

慎重にトニーは、その顔からテープを剥がしていったが、

ザッキオはその口を手で塞いだ。

「静かにしろ。連中は道路の向かい側にいるんだぞ。

奴らが歩き出したら、ほんとにこの町から出て行ったか、

俺は付けていくからな。

奴らの姿が見えなくなったら、ボートに乗り込むんだ。

エンジンは使うなよ。オールで漕いで行け。」

「なに?俺が漕ぐのか?」

「エンジンの音を香藤に聞かれたらどうするんだ?

奴は調べに戻ってくるぞ。」

トニーは、指を曲げて思わずたじろいだ。

「俺の手は死んじまってるよ。」

「じゃ、早いとこ生き返らせるんだな。

さもないと、死ぬのは手だけじゃなくなるからな。」

ザッキオはさらに声を潜めると、冷ややかに言った。

「奴が今、電話ボックスを出た。絶対に音を立てるなよ。

あいつは、20メートル以上離れた所で葉っぱが落ちる音まで、

聞き取っちまいやがるんだからな。」

香藤とエディ、それにマクガバン夫人は海岸なら離れていった。

やがて、3人は角を曲がって姿を消した。

「よし、行け。」

ザッキオはトニーが階段のほうへ向かうのを見守っていたが、

やがて急ぎ足で3人のあとを追った。

3分ほど、慎重に間を置いてつけて行ったが、

3人がまた角を曲がると見失ってしまった。

角から慎重に覗くと、そこは袋小路になっていた。

躊躇っていると、聞き間違えようのない、

フェラーリのエンジン音が聞こえて来ると、身体を強張らせた。

まだ、ぐっしょりと濡れた服を着て、ぶるぶると震えながら、

ザッキオは灯りの点いていない、

引っ込んだ入口の暗がりに身を潜めた。

フェラーリは、袋小路から出てくると、

左に曲がり北に向かって町を出て行った。

ザッキオは、フェラーリが走り去っていくのを見守っていたが、

やがて公衆電話へ急いで戻った。

ようやく、ジャンセンをつかまえたザッキオは、

寒さに震える声で捲くし立てた。

「カトウがエディとマクガバン夫人を乗せて、今、町を出てったんだ。

その前に奴はどこかに電話をかけてたんだが、

マクガバンに奥さんを救い出したことを知らせたんだと思うね。

俺があんただったら、裏口から出て行くよ。」

「心配するな。裏口から出るよ。

もう荷物はアストン・マーチンに積んである。

俺達二人のパスポートはポケットに入ってる。

これから、三つ目のパスポートを取りにいくところなんだ。じゃあ、な。」

ザッキオは受話器を置いたが、

電話ボックスを出ようとして、その場に棒立ちになっていた。

大きな黒いシトロエンが、車幅灯だけをつけて、

静かに海岸に近付いていた。

完全にとまる前に、その車幅灯まで消えていた。

屋根の上でライトが点滅していたわけでもなく、

サイレンが鳴っていたわけでもないが、明らかに警察の車であり、

それもあくまで隠密裏に現場へ乗り込んできたのは、明らかだった。

制服警官が4人、車から降りてきた。

ザッキオは、電話ボックスから出て、

ゆっくりと歩き出来るだけ暗がりに身を寄せて隠れた。

警官たちは、トニーが横たわっていた樽の影に姿を消し、

10秒足らずのうちにまた、姿を現した。

4人の警官は、集まって何かを話していたが、

やがて桟橋へ向かった。

20秒後、手漕ぎのボートが、

一隻、決然として静かに、ロイス号へと向かった。

握り締めた拳が震えるほど、ザッキオは怒りに血相を変えていた。

香藤が電話をした先は、マクガバンではなく、

警察だったということを、ザッキオは思い知らされた。





ヴィニョールの自分の部屋で、

マギーが夕食に降りていく仕度をしていると、

ドアをノックする音が聞こえた。

開けたドアの外にいたのは、ジャンセンだった。

「ちょっと、2人だけで話がしたいんだが、マギー。

重大なことなんだ。」

マギーは軽い驚きを憶えながらジャンセンを眺めていたが、

彼を通す為にドアを大きく開けた。

ジャンセンは部屋に入ると、ドアを閉めた。

「そんなに重大なことって何なの?」

好奇心に駆られて聞くマギーに、

ジャンセンはズボンに差した銃を引き抜いて、彼女を見つめた。

「君の身柄に用があるんだ。厄介なことになってるんで、

これ以上厄介なことにならないように、

いわば、担保が欲しいってわけなんだ。

小さなバッグに身の回りのものをつめて、

パスポートを俺によこすんだ。」

マギーはパスポートを渡し、

言われたように身の回りの物をバッグにつめた。

「さぁ、すぐ一緒に来るんだ。」

「どこへ連れて行くの?」

「すぐ来いと言ったんだ。」

ジャンセンは脅すように銃をあげた。

「今、この場で私を撃ったら、何人目の犠牲者になるわけ?」

「・・・クオネだよ。それから、その先のあちこちだ。」

ジャンセンの声は荒々しかったが、

本当のことを言っているという響きが出ていた。

「女の恨みを買うようなことはしないことにしてるんだ。

24時間以内に、開放するよ。」

「24時間以内に、私は死んでるわ。」

マギーはハンドバッグを取り上げると、ジャンセンを振り返った。

「お手洗いに言ってもいい?気持ちが悪いの。」

ジャンセンはバスルームのドアを開けると、中を覗いた。

「窓もなけりゃ、電話もないな。いいだろう。」

マギーはバスルームへ入ると、ドアを閉めた。

ハンドバッグから、ペンを取り出すと、

紙片に震える手で走り書きをして、

表の面を下に向けて床に置くと、バスルームを出た。

ジャンセンはマギーが出てくるのを待っていた。

左手で、マギーのバッグを持ち、銃を持った右手は、

ジャケットのポケットに、深く突っ込まれていた。





ロイス号では、

トニーがテーブルの引き出しに入っていた最後の書類を、

大きなブリーフケースに放り込んでいた。

そして、サロンに戻るとブリーフケースをソファの上に置き、

キャビンが並んでいる方へ階段を下りていった。

トニーは、まっすぐに自分のキャビンへいくと、

5分ほどかかって身の回りの大事なものを、

大急ぎでバッグに詰め込んだ。

ついで、他のキャビンを回って引き出しの中に、

金目のものが残っていないか調べた。

かなりの額を見つけて、自分のキャビンに戻ると、

それもバッグに仕舞いこんだ。

階段を上がって、もうあと少しで上がりきるというところで、

トニーは立ち止まった。

その顔には、信じられないという気持ちと、

恐怖の入り混じった表情が浮んでいた。

大柄な武装した警官が、4人、

サロンのソファにゆったりと座って寛いでいた。

ブリーフケースを膝の上に置き、その上に肘をついて、

手に持ったピストルをほぼ、トニーの心臓へ向けた一人の警官が、

にこやかに言った。

「どこかへ出かけるのかね、トニー?」





フェラーリは闇を縫って走っていた。

マクガバン夫人は、フロントシートに座って、

香藤が主張した為、シートベルトを締め、

少し眠そうなエディはバックシートに寝そべっていた。

「と、言うわけで。」

と、香藤は話し始めた。

「ごく簡単なことだったんだよ。

この八百長戦の首謀者はジャンセンで、

黒幕がジョバンニ兄弟だってことは、すぐに分かるだろうけど。

とにかく、グランプリ・レーサーの勝敗に、

金を賭けるって言うことを思いついたのは、

ジャンセンだったんだ。

で、奴は少なくとも4、5人のドライバーを買収して、

自分に有利なように勝敗を操作したんだ。

メカニックはもっと多かったけどね。

そういう連中に大金を払っても、奴はそれで一財産作ったんだ。

奴にとって、俺は目の上のたんこぶだったわけだけど、

俺を買収できないってわかってたんだね。

ところが、出るたびに俺がほとんど優勝をさらっていくから、

商売がやりにくくなったんだ。

で、クレルモンフェランで、俺を殺そうとしたんだよ。」

後の席で、エディがもそもそと身体を動かした。

「だけど、ヨウジがトラックを走ってるときに、

どうしてそんなことが出来たの?」

「二つ方法があるんだ。

無線で操作する爆破装置をサスペンションにつける方法と、

化学薬品を使った装置をブレーキ・パイプにつける方法とね。

どっちの仕掛けも、

爆破と同時に粉々に吹っ飛ぶようにしてあったんだと思うよ。」

「だから、事故を起こしたマシーンを点検する時、

彼はいつも一人で調べるって言い張ったんだね?」

香藤は頷くと、しばらくの間、もの思いにふけっていた。

「でも、」

シーラが言った。

「でも、みっともない真似までして、自分で評判を落とすようなことを、

良くする気になったわね。」

香藤は、くすっと笑った。

「まぁ、そう楽しいわけじゃなかったけどね。

でも、知ってのとおり、俺は世間の注目を集めてたんだよ?

こっそりと行動するなんて、不可能だからね。

頼まれた仕事を秘かに進めるなんて、無理だし。

そう難しいことじゃなかったよ。輸送車の運転を引き受けたのは、

品物の出所がマクガバン・チームのガレージなのかどうか、

突き止めなきゃならなかったから。やっぱりそうだったよ。」

「品物?」

シーラが首をかしげた。

「ほこり、だよ。隠語で、ヘロインのことなんだって。

レースでコントロールを失う以外にも、

ほこりにまみれて死んでいく方法はいろいろとあるんだよ。」

「ほこりまみれの死。」

シーラは身震いをすると、同じ言葉を繰り返した。

「ほこりまみれの死。で、それをジェームズは知っていたの、ヨウジ?」

「6ヶ月前に、輸送車が利用されていることを知ったんだよ。

でも、妙なことにジャンセンを疑おうとはしなかったんだ。

あまりにも長い付き合いだから、だと思うけどね。

連中としては、

なにが何でもジェームズの口封じをしないといけなかったんだ。

だから、シーラをかたに取ったってわけなんだ。

そのうえ、金も強請られてた。」

シーラは、1分近くも黙り込んでいた。

「私が生きてること、ジェームズは知ってたの?」

「うん。」

「でも、ジェームズはヘロインのことを知ってたんでしょう?

6ヶ月もの間、知ってたのよ。そのヘロインで身体を壊して、

死んでいった人たちのことを考えてごらんなさい。」

香藤は右手を伸ばして、シーラの左手を握り締めた。

「ジェームズは、あなたを愛してるんだよ、シーラ。」

その時、ライトを下向きにして、一台の車が近付いてきた。

香藤も、ライトを下向きにした。

一瞬、対向車のライトが上向きになったが、

すぐにまた、下向きに戻った。

2台の車がすれ違うと、対向車を運転していた男は、

両手を前で縛られて隣に座っている娘の方を振り向いた。

ジャンセンは、舌を鳴らしたが、ひどくご機嫌のようだった。





フェラーリの車内では、シーラが眉をしかめていた。

「ジェームズは裁判にかけられることになるんでしょう?

輸送に手を貸したわけだから。」

「ジェームズは、裁判になんてかけられないよ。」

「でも、ヘロインを・・・。」

「ヘロイン?エディ、誰かがヘロインなんて言ったのを聞いたか?」

「ママは、かなりひどい目にあわされてきたんだよ、ヨウジ。

ちょっとおかしくなってきちゃったんじゃないかな?」






     続く




   2006年4月5日
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