捻じれたサーキット 4







クレルモン・フェランにおけるレースの後の、

あわただしい数週間が過ぎても、

香藤洋二にはほとんど変わったところが見られなかった。

事故以来ずっと打ち解けず、

自分の殻に閉じこもって孤立していたが、

それは今やますますひどくなっていた。

実力も、名声も、その頂点に達していた栄光の日々にも、

香藤は本心はおくびにも出さず、

見た目には異常とも思えるほど寛いでいた。

が、本心を表に出さない、という点では今も変わりはなく、

静かな日々を送っているように見えるのだが、

相変わらず殻に閉じこもり超然としていた。

今や、その手も震えることもなく、平静を保っているようだったが、

イザクを死なせたあの日以来、

落ち目になった、などという言い方では、

とんでもない言葉の誤用ではないかと思われるほど、

香藤洋二の運は尽きていた。

それは香藤はもちろん、彼を取り巻いていた多くの友人、知人、

それに崇拝者達にもまず、間違いなくとどめをさすような激しさで、

すでに、崩れ去っていたのだ。






イザクの死の2週間後に、そのほとんどがフランスの新聞や雑誌で、

散々侮辱され、非難された香藤を許し、励まして、

ふたたび勝利の栄冠を獲得させる為に集まってきた、

チームの母国、イギリスの観衆の前で、香藤は屈辱とは行かないまでも、

第2周目にコースから飛び出すという、恥ずかしい思いをさせられた。

香藤自身にも怪我はなく、観衆を巻き添えにしたわけでもなかったが、

彼のマシーンは、完全にポンコツになっていた。

フロント・タイヤが両方ともバーストしていたので、

少なくともその片方はマシーンがコースアウトする前に、

パンクしたものと推定された。

それ以外には、

香藤が突如コースから飛び出したことへの説明がつかない、

ということになった。

が、全ての意見が一致したわけではなかった。

当然予想されるように、

ジャンセンはそれは何とも思いやりのある推定だと言った。

彼は運転ミス、という言葉にひどく執着するようになってきていた。






その2週間後、

ドイツ・グランプリが行われ、おそらくヨーロッパでももっとも難しい、

といわれるサーキットだったが、

香藤なら難なくこなせると言われていたのに、

雷雲のようにマクガバン・チームのピットを覆っていた暗澹たる絶望感は、

実際に目に見えると言ってもいいほどだった。

レースはすでに終わり、最後尾のマシーンもピット・インする前に、

最後の一周をするためにすでに姿を消していた。

マクガバンが失意と苦々しげな色をその顔に滲ませて、

岩城に視線を投げかけると、

岩城は目を伏せ、下唇をかんで首を振った。

マクガバンは目をそらすと、一人、物思いにふけった。

マギーは、二人の傍らで椅子に座っていた。

そして、その抜けるように白い顔には、

今にも涙が溢れそうな表情が浮かんでいた。

マギーの後にはジャンセンとその二人の助手、

それにエディが立っていた。

ジャンセンの顔には、

常に浮かんでいるむっつりとした表情を別にすれば、

それ以外の表情は、なにも浮かんでいなかった。

ランドルフ兄弟はまったく同じ表情を浮かべており、

この時は諦めと絶望が入り混じっていた。

そして、エディの顔に浮かんでいたのは、

冷ややかな侮蔑の色だけだった。

「完走12台中、11位か!大したドライバーだな。

わがワールドチャンピオンも、もうおしまいだよ。」

ジャンセンはつくづくとエディを眺めた。

「一月前までは、君のアイドルだったんだぞ、エディ?」

エディは姉に目を向けた。

まだ、肩がうな垂れていて、

その目に涙が浮かんでいるのがはっきりと見て取れた。

エディはジャンセンに目を向けると、吐き出すように答えた。

「それは、一月前までのことさ。」

ライトブルーのマシーンがピットに飛びこんでくると、

ブレーキをかけて止まった。

けたたましい排気音が消え、ザッキオはヘルメットを脱ぎ、

大きなハンカチを取り出して、その女性に人気のある顔を拭うと、

グローブを外しにかかった。

2位でゴールしただけでなく、

1位との差がわずかに一車身だったのだから

無理もなかったが、ひどく満足げな興奮した顔をしていた。

マクガバンはその傍らへ行くと、

まだ座っているザッキオの背を叩いた。

「素晴らしいレースだったぞ、ザッキオ。

君としては最高のレースだったな。

それもこの難しいサーキットでな。

5回出場して、3度、2位になったわけだ。」

マクガバンは微笑を浮かべた。

「今度のレースを見ててくださいよ。

今までのところ、ザッキオとしては全力を出して

いないんですからね。

レースの合間を見ちゃ、わがチーフ・メカニックがメチャクチャに

してくれるマシーンの性能を、少しでも上げようとしてただけで。」

ザッキオがそう言ってジャンセンに笑いを投げかけると、

ジャンセンはにやっと笑い返した。

性質も趣味もまるで違うのに、この二人は非常に気が会うのだ。

「ところで、2週間先には、

オーストリア・グランプリが控えているわけだけど、

シャンパン2、3本であなたが破産するわけはないでしょうから、

いいでしょう?」

マクガバンはまた、微笑を浮かべた。

彼が微笑を浮かべるのにはちょっとした努力が必要だったが、

それはザッキオが相手だったからではないということは、明らかだった。

マクガバンをまだ、痩せた男と言うわけにはいかなかったが、

この一ヶ月の間に、顔も体もかなり痩せて、

その顔に元々きざまれていた皺も、深くなったように見えた。

その豊かな髪にも白髪が増えたようにさえ見えた。

お気に入りのスーパースターが栄光の座から転落したことが、

これほど劇的な変化を彼にもたらしたと考えることは難しかったが、

他に理由があると考えるのも、同じくらい難しかった。

「オーストリア・グランプリには、ちゃきちゃきのオーストリア人が一人

出場するってことを忘れちゃいないか、ザッキオ?」

ザッキオは平然として答えた。

「ヴィリは、オーストリア人かもしれないけど、オーストリア・グランプリは

あんまり得意じゃないんですよ。

まだ、4位以内に入ったことがないんですからね。」

もう1台のマシーンがピットに入ってくると、

ザッキオはチラッと視線をそらせたが、

またマクガバンに目を向けた。

「それに、その2度とも1位になったのが誰かは知ってるでしょう?」

「ああ、知ってるよ。」

マクガバンがいかにも気が重そうにザッキオに背を向けると、

香藤がマシーンから降り、ヘルメットを脱いで自分のマシーンを眺め、

首を振ってるほうへ近付いていった。

香藤に話しかけたマクガバンの声には、

苦しげなところも腹を立てているところも、

非難しているようなところもなく、

かすかに諦めと絶望が滲み出ているだけだった。

「まぁ、ヨウジ、出るたびに勝つわけにはいかないんだよ。」

「このマシーンじゃ、勝てませんね。」

「と、言うと?」

「回転が上がると、力が出ないんです。」

ジャンセンがすでに傍らに来ていたが、香藤の説明を聞いても、

その顔には何の表情も浮かんでいなかった。

「はじめからか?」

「いや、あんたのせいじゃないんだ、ジャンセン。

それはわかってるんだよ。

凄くおかしかったんだ。

力が出たな、と思うと、またすっとだめになっちゃうんだよ。

少なくとも、12、3回はフル・パワーが出たんだ。

でも、長続きしないんだよ。」

香藤はジャンセンに背を向け、浮かない顔でまた、マシーンを調べた。

ジャンセンがちらっとマクガバンに目を向けると、

彼はほとんどわからないほどかすかに頷いた。






その日、夕闇が迫る頃には、最後の観客と役員も引きあげて、

サーキットには人影がなくなっていた。

マクガバンは、両手を薄茶のスーツのポケットに深く突っ込み、

一人、ぽつん、と浮かない顔をしてチームのピットの入口に立っていた。

マクガバンはあたりに誰もいない、と思っていたかもしれないし、

そう思うのも無理はなかったが、その場にいたのは彼だけではなかった。

黒っぽいタートルネックのセーターに、

黒っぽい皮のジャケットを着た男が、

隣のカリナ・チームのピットの影の片隅に身を潜めていたのだ。

この二人以外、サーキットにはまったく人影はなかった。

が、音はしていた。

グランプリ・マシーンのエンジンの轟音が大きくなると、

遠くにその姿を現し、ギアを落としてぐっとスピードを殺しながら、

カリナ・チームのピット前の通過し、

マクガバン・ピットの入口の前で止まった。

ジャンセンがマシーンから降りると、ヘルメットを脱いだ。

「どうだ?」

「調子が悪いなんて、とんでもない話ですよ。」

ジャンセンの口調は淡々としていたが、その目は鋭かった。

「快調そのものです。カトウの奴も想像力だけは逞しいようですね。

今度のは単なる運転ミスなんてものじゃありませんよ。」

マクガバンはためらった。

ジャンセンがエンジンの不調を感じずに一周したことは、

何の証拠にもならないのだ。

ことがことだけに、

ジャンセンには香藤のようなスピードは出せるはずはなく、

さらに言えば、エンジンの不調は、最高に熱くなった時だけに、

起こるのかもしれなかったからだ。

ジャンセンが一周しただけで、

エンジンがそこまで熱くなったとは思えず、

1億円以上もするものもある、こういう高価なレース用エンジンは、

非常に気まぐれで、人間の手がまったく触れなくても、

ひとりでに故障を起こし、ひとりでに直ってしまうことが良くあるのだ。

当然のことながら、ジャンセンはマクガバンの沈黙を、

彼が疑問に思っているのか、

まったく自分と同意見なのかの、どちらかだと受け取った。

「私と同じ考えなんですか、マクガバンさん。」

マクガバンは、否定も肯定もしなかった。

「マシーンはそこへ置いておけ。ヘンリーとランドルフたちに輸送車を

もって取りに来させよう。ジャンセン、それより飯だ。

もう、それくらいは働いただろう。

それに、酒だ。実際、この4週間ほど苦労させられたことは、

これまでになかったんだからね。

たっぷり飲ましてもらってもいいんじゃないか?」

「その点に関しては、同意見ですね。」

マクガバンのブルーの、アストン・マーチンは、

ピットの裏に止めてあった。

二人はそれに乗り込むと、サーキットを去って行った。




香藤は、アストン・マーチンが引き上げていくのを見守っていた。

ジャンセンの引き出した結論なり、

マクガバンがそれを受け入れたように見たことで、

香藤が動揺していたとしても、

その顔には平然とした色が浮かんでいた。

次第に濃くなる夕闇の中に、車が姿を消すまで待って、

香藤は慎重に辺りを見回し、

誰もいないことを確認してから、

カリナ・チームのピットの奥へ入っていった。

そこで、手にもっていたバッグを開けると、

香藤はランプ、ハンマー、

たがねとドライバーを取り出して、

近くにある木箱の上にそれらを置いた。

ランプをつけ、一旦強くなった明かりを低く落とすと、

ハンマーとたがねを取り上げ、

決然として仕事にかかった。




ごく少数の限られた人間にしか価値のない、

エンジンやシャシーの予備部品などに、

流しの泥棒が食指を動かすなどということはまず、

考えられなかったので、

ほとんどの木枠や木箱は釘付けにしていなかった。

こじ開けなけばならない箱もいくつかあり、

そういう箱にぶつかると香藤は慎重に、

そっと、できるだけ音を立てないようにこじ開けた。

香藤は調べるのできるだけ時間をかけないようにしていたが、

おそらく、長くかかればそれだけ見つかる危険も増大するからだろう。

また、香藤は自分の探しているものを、正確に知っているようだった。

中には、ごくざっと目を通すだけで片付けてしまう箱もあった。

大きな木枠ですら、せいぜい1分しかかけなかった。

知らべはじめてから30分もたたないうちに、

香藤はすべての木枠と木箱を元通りにしはじめていた。

こじ開けなければならなかった木箱は、

できるだけ痕が残らないように布をかぶせたハンマーで元通りにした。

それが終わると香藤は、ランプと道具をバッグにしまい、

カリナ・チームのピットを出て、

ほぼ暗くなりきっていた闇の中へ消えていった。







             続く





           2005年9月17日
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