捻じれたサーキット 5







14日後、

ザッキオはマクガバンに約束したことを達成し、念願を果たした。

オーストリア・グランプリを獲得したのだ。

今ではすでに予想されていた通り、

香藤は何も手にすることはできなかった。

スタートは好調だった。

如何なる基準、香藤自身の基準から見ても見事なスタートで、

5週目の終わりには、

他のマシーンを大きく引き離してトップに立っていた。

が、6週目にかかると香藤はマシーンをピットへ乗り入れてしまった。

マシーンから降りてきたところは、特になんともないようだった。

が、香藤は両手をレーシング・スーツのポケットに、深く突っ込んでいた。

そうしていると、その手が震えているかどうか傍目には、わからない。

すべてのピット・クルーが駆け寄っていくと、

香藤は来なくていい、

というように手を振る間だけポケットから手を出した。

「慌てなくていいんだ。」

香藤は、口を開きながら首を振った。

「急ぐこともないしね。4速ギアが外れてるんだ。」

香藤はその場に突っ立ったまま、浮かない顔でコースを眺めていた。

マクガバンは、じっと香藤を見つめていた。

次に岩城に目を向けると、

彼は、その視線に気付いたようにも見えなかったのに頷いた。

岩城の視線は、香藤のポケットの中で握り締められている拳に、

じっと注がれていた。

「ザッキオを止めよう。彼のマシーンに乗るといい。」

香藤はすぐには答えなかった。

近付いてくるエンジンの音が聞こえてくると、

コースの方へ顎をしゃくった。

ライトブルーのマクガバン・チームのマシーンが、

一瞬のうちに通り過ぎても、

香藤はまだ視線を向けたままでいた。

次のマシーン、ヴィリのライム・グリーンのカリナが通り過ぎるまでに、

少なくとも15秒はかかっていた。

香藤は振り返り、マクガバンに目を向けた。

香藤のいつもは無表情な顔に、

信じられないという色がかすかに浮かんでいるようだった。

「奴を止める?とんでもない。気でも狂ったんですか?

今や俺が棄権したんで、

ザッキオは15秒も差をつけてトップに立ってるんですよ?

今止めたりしたら、わがシニョール・ザッキオは、

一生俺を許さないでしょうね。

あるいは、あなたを。

これで、奴は最初のグランプリを獲得することになりますよ。

一番欲しがっていた、グランプリをね。」

それで話はついたとでも言うように、

香藤はマクガバンに背を向けると、立ち去っていった。

マギーとエディは香藤が去っていくのを見守っていた。

マギーの目には胸を痛めているような色がにじみ、

エディの目には勝利感と侮蔑の入り混じった色が浮かんでいたが、

彼はそれを隠そうともしていなかった。

マクガバンはためらい、何か言いかけて彼も振り返ると、

方向こそ違ったが立ち去っていった。

岩城は彼について歩き出し、ピットの隅で立ち止まった。

「見たか?」

「見たかって、何を?」

マクガバンが眉をしかめた。

「やめてくれ、キョウスケ。私にまで、とぼけなくてもいいだろう?」

「あなたの見たものを、俺も見たかってことかい?彼の手を?」

「また、震えの発作を起こしてるんだ。」

マクガバンはしばらく黙り込むと、溜息を漏らし、首を振った。

「私は、言いつづけるぞ。

レーサーを続けていれば、みんな、神経をすり減らすんだ。

どんなに冷静であろうと、勇敢であろうと、才能があろうと・・・。

でも、こんなことはみんな、もう前に言ったんだ。

ヨウジみたいに、氷のような冷静さと鉄のコントロールを

もっている男の場合、がっくり来るとちょっとやそっとのことじゃ、

すまないってことになりがちなんだ。」

「・・・で、いつ頃がっくりくるんだい?」

「そう先のことじゃないだろうな。

もう一度だけ、ヨウジを出してやろうと思うんだよ。

奴がこれから何をするかわかるか?

これからというより、今晩だ。

ここんとこ、かなり手をあげてきてるんだよ。」

「知りたいとも思わないよ。」

「酒を煽るんだ。」

「もう、始めてまさぁ。」

ひどい訛りのある声が言った。

マクガバンと岩城は、その声にゆっくりと振り返った。

後の建物の影から出てきたのは、

小柄なもじゃもじゃの白い髭をはやした、ヘンリーという、

もうとっくに、定年を過ぎた輸送車の老運転手だった。

「盗み聞きしてたってわけか?」

マクガバンは、口調も変えずに言った。

「盗み聞き?

私が盗み聞きなんかせんということくらい、わかっとるでしょうが?

マクガバンさん、ただ聞いとっただけですよ。

盗み聞きと聞くのとでは違うんでさぁ。」

「今、なんて言ったんだ。」

「聞こえたくせに、なに言うとるんです。」

ヘンリーは、相変わらず見事なまでに平然としていた。

「奴が、頭が変になったみたいな運転をしとるってことも、

ほかのレーサー達が奴のことを怖がりだしとることも、

あんたは知っとるんだ。

実際、連中は震えあがっとるんですよ。

あの男は、もう、レースに出ちゃいかんのだ。

もう、ガタがきとるんですよ。」

岩城が、少し小首をかしげる仕草で、ヘンリーを見おろした。

「あなたの言おうとしていることは、わかってるよ。

あなたは、ヨウジの友達だと思ってたけどね、ヘンリー。」

「ああ、友達ですとも。あんたがたを前にしてこう言っちゃなんだが、

あんな立派な紳士はまず、いないね。奴に死んでもらいたくないし、

人殺しだなんてことであげられるのを避けたいと思うのは、

奴の友達だからなんですよ。」

「あんたは、余計な口出しなんかしないで、

輸送車を運転するという仕事だけしてればいいんだ。

私はこのチームの経営に専念するからね。」

マクガバンは、なるべく棘のないように言った。

ヘンリーは、頷くと背を向けた。

その顔には厳しい表情が浮かび、

その歩き方には、抑えた怒りが出ていた。

マクガバンは、ヘンリーに負けないほど、

厳しい表情を浮かべて考え込んでいた。

「彼の言う通りかも知れんな。実のところ、

諦めたほうがいいと思える理由はそろってるんだ。」

「彼がどうしたって言うんだい?」

「落ち目なんだよ。行き詰ってるんだ。

ヘンリーに言わせれば、ガタが来てるってわけさ。」

「・・・どういうことなんだ?」

「バッカスって奴に、魅入られちゃったんだよ、キョウスケ。」

「証拠は?」

「飲んでるっていう証拠はないんだが、

飲んでないという証拠もないんだ。

飲んでないって言えないってことは、やっぱりまずいんだよ。」

「すまないけど、話がよくわからいんだ、ジェームズ。

何か隠してることでもあるのかい?」

マクガバンは頷くと、隠していたことを手短に伝えた。

香藤が今まで謹んで来た酒を飲みはじめたのではないか、と疑い、

調査員を雇って香藤を尾行させた。

香藤はそれに気づいていたのか、あるいは、運がよかったのか、

決定的なことはわからなかった、とマクガバンは答えた。

「でも、疑う余地のない証拠が、毎日あがってるんだ。」

岩城はしばらく黙っていたが、マクガバンにはもうそれ以上は

何も付け加えるつもりがないのを見て取ると、口を開いた。

「証拠って?」

「匂い、という証拠だよ、キョウスケ。」

岩城はちょっと間を置いてから、ふたたび口を開いた。

「俺は、何の匂いにも気付かなかったけどね。」

「それはね、キョウスケ。何の匂いも嗅ぎ取れないからなんだよ。

君はオイルの匂いも嗅ぎ取れないし、燃料の匂いも嗅ぎ取れないし、

タイヤの焼ける匂いも嗅ぎ取れないだろ?スコッチの匂いも、

嗅ぎ取れないのが当然じゃないか?」

岩城は、それを認めて頷いた。

「あなたは何か嗅ぎ取ったのかい?」

マクガバンはゆっくりと首を振った。

「じゃ、どういうことなんだい?」

「・・・近頃、奴はひどく私を避けてるんだよ。

前には、ヨウジと私がどんなに親しかったかは知ってるだろう?

たまに近くへ来ると必ず、のどの痛み止めの、

薄荷入りのトローチの匂いがぷんぷんするんだ。

何かぴんと来ないか?」

「いい加減にしてくれないか、ジェームズ。

そんなことは証拠でもなんでもないだろう?」

「あるいは、そうかもしれないよ。

でも、ザッキオとジャンセンとエディは、

間違いないって言ってるんだ。」

「彼らは、なんとも立派な偏見の持ち主だからね。

もし、香藤がおろされたら、

次のチャンピオンになる可能性が大いにある、

チームのナンバー1になるのは、誰なんだ?

ほかならぬ、ザッキオなんだ。

それに、ジャンセンと香藤は、元からうまくいってなかったところへ、

今じゃ、ますますひどくなってる。

ジャンセンとしては、車をぶつけられるのが面白くないし、

それ以上に面白くないのは、

事故は自分の腕とは何の関係もないって言う、香藤の主張なんだ。

当然、ジャンセンの整備能力が問題になってくるからね。

エディは、はっきり言って、香藤にひどくがっかりさせられて、

可愛さあまってなんとやらになってるんだよ。

今じゃ、彼の味方は、マギーくらいのものだろうね。」

「うん。わかってるんだ。」

マクガバンは一瞬黙り込んだが、やがて続けた。

「最初にそう言ってきたのは、マギーなんだよ。」

「やれやれ!」

岩城は嘆息してコースの方へ目を向けると、

マクガバンを見ないまま口を開いた。

「もはや考える余地はないじゃないか。

香藤を首にするほかないんだ。

できれば、今日にでもね。」

「君はこのことをたった今、知ったんだが、私にはしばらく前から

わかっていたということを忘れてやしないか、キョウスケ。

私の決心はもうついてるんだよ。

もう一度だけ、出してやろうと思うんだ。」






夕闇の迫る駐車場。

レーシング・カーとその部品、それに簡易修理施設まで積んで

ヨーロッパを走り回る巨大な輸送車、トランスポーターが、

薄暗がりの中に浮かび上がっている。

どこからも明かりが漏れていないという事実が示しているように、

その輸送車にも人は乗っていなかった。

駐車場自体にも、次第に濃くなる闇の中から姿を現し、

入口を入ってきた男以外には、人影がなかった。

香藤洋二は、小さなバッグを手に駐車場を横切ると、

一台の輸送車の傍らで止まった。

その側面と後部には、黒い跳ね馬が描かれていた。

香藤は妙な形をした鍵の束を取り出し、2、3秒でドアを開けてしまった。

中へ入り、ドアを閉める。

鍵をかけて、最初の5分間は、両側の窓から窓へ移動し、

不法侵入したのを見つけたものいないことをじっくりと確かめていた。

満足すると、香藤はバッグからランプを取り出し、赤色灯をつけると

一番近くにある、フェラーリ・レーシング・カーの上にかがみこんで

詳細に調べ始めた。






その日の夕方、ホテルのロビーには30人ほどの人がいた。

その中には、マギーと、エディ、

それにメカニックのランドルフ兄弟も混じっていた。

その週末はいくつかのチームがホテルを占領していて、

その場はかなり賑やかだった。

まだ、一時間ほど夕食には間があり、思い思いに時間を潰していた。

マギーは、隣に座るヘンリーに顔を向けた。

「毎晩、ヨウジはどこへ出かけていくの?

このごろ、夕食の時にめったに見かけないけど。」

「ヨウジ?」

輸送車の老ドライバーは、

ジャケットのボタンホールの花を直しながら首を傾げた。

「まるっきり、わからんね。一人でいるのが好きなのかもしれんて。

どこかに、ここよりうまい店を見つけたのかも知れないし。見当もつかんよ。」

エディは、広げている雑誌を見ている振りをして、

全身の神経を耳に集中させていた。

「よその方がいいのは、食事だけじゃないかも知れないわ。」

「女の子かね?ヨウジ・カトウは女の子なんかに興味はないんだよ。」

「バカなこと言わないで。私の言ってることくらい、わかってるくせに。」

「なにを?」

「とぼけないで、ヘンリー。」

誤解されて悲しい、という表情で、ヘンリーはマギーを見返した。

「私はね、とぼけられるほど頭は良くないんだよ。」

マギーはじっとその顔を見ていたが、不意に視線を外した。

エディも、慌てて雑誌に視線を落とした。






香藤は、覆いのかかった赤い灯りで、部品の入った箱を探った。

突如、香藤は半ば身体を起こすと、

何かを聞き取ろうとしているかのように、首を傾げた。

ランプを消すと、側面の窓へ行って外を覗いた。

すでに、夜といっていいほど闇が濃くなっていたが、

あちこちに浮かんだ雲のあいだから、

覗いている月の光で見えることは見えた。

二人の男が、駐車場を横切って、香藤が見守っているところから

20メートル足らずのところに止めてあるマクガバン・チームの

輸送車の方へ真っ直ぐに向かっていた。

その二人がマクガバンとジャンセンであることを見て取るのには、

何の苦労もいらなかった。

香藤はフェラーリの輸送車のドアに近付き、鍵を開けると、

マクガバン・チームの輸送車のドアが見えるところまで、

慎重にドアを開けた。

マクガバンが鍵を差し込んでいた。

「じゃ、疑う余地はないわけだ。ヨウジの想像力が

逞しかったわけじゃないんだな。4速のギアが外されてたのか。」

「ええ、すっぽりとね。」

「と、なると、いろいろと疑ってたけど、

結局ヨウジは、白なのかもしれないな?」

マクガバンの声には、

そうだと言ってくれと思っているような響きが滲み出ていた。

「ギアをはずす方法は、一つだけじゃないんですよ。」

ジャンセンの口調には、

マクガバンを力づけてくれるようなところは、ほとんどなかった。

「そりゃ、そうだろう。さあ、そのとんでもない

ギアボックスを見てみようじゃないか。」

二人の男が中にはいると、灯りがついた。

いつになく薄っすらと微笑を浮かべて、香藤はゆっくりと頷くと、

ドアを閉め静かに鍵をかけて、また探し物を始めた。

カリナ・チームのピットを調べた時のように、

慎重に、あとを残さないように、作業を進め、

すばやく全神経を集中して調べていき、

外で何か音がしたときに、一度だけ、作業を中断した。

香藤はその音の元を調べ、マクガバンとジャンセンが

チーム輸送車のステップを降り、人影のない駐車場を

横切って遠さがって行くのを確認した。

香藤はまた、作業を続けた・・・。







              続く





            2005年9月19日
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