捻じれたサーキット 6







香藤がホテルに帰りついたとき、

バーとしても使われているロビーは、

一つも空いている席がないほど混み合っていた。

カウンターには、

少なくとも10人ほどの男たちが肩を並べていた。

マクバガンとジャンセンは岩城と一緒にテーブルを囲み、

マギーとヘンリー、それにエディはまだ同じ椅子に座っていた。

香藤が玄関のドアを閉めると、夕食を知らせる鐘が鳴った。

このホテルは、

みんな一緒に食卓に着き時間に遅れると食べられない、

という方式を変えようとしない、田舎のホテルだった。

客にはいささか不便だったが、

経営者やホテル従業員には都合のいい方式である。

香藤がロビーを横切って階段の方へ歩いていくと、

客が次々に立ち上がっていた。

香藤に声をかけるものも僅かながらいたが、

マクガバンとジャンセンと岩城は、香藤を完全に無視していた。

エディはあからさまな軽蔑の色を浮かべて彼を睨みつけた。

マギーは、ちらっと目を向けると、

唇を噛みまたすぐに視線をそらせた。

二ヶ月前だったら、香藤洋二が階段の下までたどり付くのに、

5分はかかっていただろうが、

その晩は十秒足らずしかかからなかった。

部屋につくと、香藤は顔と手をざっと洗って、髪に櫛を入れ、

クローゼットへ行くと高い棚に手を伸ばした。

スコッチの瓶を取り出し、バスルームへ行って少し口に含むと、

口の中全体にそれをまわし、顔をしかめて吐き出した。

そして、ほんの少し口をつけただけのグラスを、洗面台の端において、

クローゼットに瓶をしまい、食堂へおりていった。





香藤が最後だった。

まったく見ず知らずの人が入っていっても、

もう少しは注意を払ってもらえただろう。

食堂はかなり混んでいたが、空いた席がないわけではなかった。

ほとんどが4人用のテーブルだったが、

2人用のテーブルもいくつかあった。

香藤は2人用のテーブルに一人で座っているヘンリーを見つけた。

おそらく無意識のうちに、香藤の口がほんの少し、

気のせいと思われるほど短い間歪んだが、

次の瞬間にはもうためらわずに食堂を横切り、

ヘンリーのテーブルに座っていた。

「いいだろ、ヘンリー?」

「いいともさ。」

ヘンリーは温かく香藤を迎え、食事の間、ずっとその態度を変えずに、

次から次へと何と言うこともないことをしゃべり続けていた。

ヘンリーとしては一生懸命つとめていたのだが、

香藤にはおよそ面白くもない話ばかりだった。

ヘンリーの知能には限界があり、

その単調きわまる話の相手をしているのは、

かなりの苦痛だった。

さらに悪いことに、その食堂の静かさは、

寺院の中の静かさに似ていていた。

香藤がそこにいること自体が、

普通にお喋りを楽しむという雰囲気をぶちこわしてしまったということが、

わかるくらいに静かだった。

そのため、ヘンリーも二人のテーブル以外には聞こえないような、

ひそひそ声で話さなければならない様な気になってしまい、

その結果、

文字通り顔をつき合わせて話さなければならなくなってしまった。

食事が終わったとき、香藤は心からほっとしたが、

それを顔に出すようなことはしなかった。

ヘンリーもまた、ひどく臭い息に悩まされていた。

香藤は最後の一団とともに立ち上がった。

そして、ふたたび込み合っているロビーへぶらぶらと出て行った。

まったく無視され、ぼんやりとあちこちに視線を走らせながら、

香藤は見たところどうしたらいいのか、

決心がつかないようにその場に立っていた。

マギーとエディが目に入り、ロビーの向こうの端では、

マクバガンがヘンリーとしゃべっていたが、

見たところ何ということもない無駄話のようだった。

「どうだった?」

ヘンリーはいかにも立派なことをしているのだ、

という表情を浮かべていた。

「ウィスキー工場みたいに、ぷんぷんでさぁ。」

マクガバンはかすかに微笑を浮かべると、頷いた。

「グラスゴーの出なんだから、

あんたならその辺のことは間違いないだろうな。

さっきは失敬なことを言って悪かったよ。」

「いいんですよ、マクガバンさん。」

香藤はその二人から目をそらした。

二人のやり取りは一言も聞こえなかったが、

その内容はわかっていた。

突如、意を決したかのように香藤は玄関の方へ向かった。

香藤が出て行こうとしてるのを見て取ると、

マギーは辺りを見回して、自分に目を向けているものが、

いるかどうかを知らべていたが、

いない、と確信したらしく立ち上がってその後を追った。

エディは、姉が去った後少しの間待っていたが、

やがてぶらぶらと玄関のほうへ歩いていった。

5分後、香藤は一軒のカフェへ入ると入口に見える席へ座った。

ウェイトレスが注文をとりに近付き、

目を見張っってにっこりと笑顔を浮かべた。

男女を問わず、ヨーロッパでは香藤洋二の顔を知らない人間は、

珍しいくらいだったのだ。

「トニックの水割り。」

香藤は微笑を返した。

「なんて仰いました?」

ウェイトレスの目がさらに見開かれた。

「トニックの水割り。」

重ねて答える香藤に、ウェイトレスは黙って頷いた。

香藤は入口に目を向けたまま、ちびちびとトニックを飲んでいた。

が、扉を開いてマギーが入ってくると、眉間に皺を寄せた。

マギーはすぐに香藤を見つけると、店内を横切った。

「こんばんは、ヨウジ。」

「君が来るとは、意外だったよ。」

「どういう意味?」

「いや、君が来るとは思ってなかったんだ。」

マギーは少し眉を顰め、香藤を見返した。

「誰に言われて、俺のことを探りに来たんだい?」

香藤の口調は、その言葉と同じくらいそっけなかった。

マギーは香藤の顔をじっと見つめていた。

その顔には、信じられないと言うよりも、

わけがわからないといった表情が浮んでいた。

「一体それはどういう意味なの?」

「探るという言葉の意味なんて、そうはないだろう?」

「まぁ、ヨウジ!私があなたのことを探るなんて、

そんな事絶対にないって知ってるでしょう?」

傷ついた目をして見返すマギーに、

香藤はほんの少し態度を和らげた。

「じゃ、なぜこんなところへ来たんだい?」

「それは、通りかかったら・・・。」

「俺の姿が見えたから、入ってきたってわけかい?」

香藤は、不意に立ち上がると入口へ行き、ドアを開けた。

通りを、右、左と視線を向け、

道を隔てた向かい側の建物の影にいる人物を見つけた。

気付いたことをおくびにも出さずに、香藤はまた、席に戻った。

「君の目は、曇りガラスを見通せるんだな。」

「わかったわよ、ヨウジ。あなたをつけてきたの。

私、不安なのよ。どうしようもなく不安なの。」

「誰でもそういう時はあるさ。

トラックを走ってても、不安になる時があるよ。」

香藤はそれだけ言うと黙ってマギーを見つめた。

それから、徐に口を開いた。

「その不安に関してだけどね。」

「ええ?」

「なにが気がかりなのか、当ててみようか?」

マギーは、無理だ、というように肩をすくめた。

「君の不安の種は、3つあるんだ。

エディ、君の親父さん、それから、君のお袋さん。」

マギーが何か言いかけると、香藤はそれを押しとどめた。

「エディの俺に対する敵意は忘れていい。

ひと月もすればすべては悪夢だったんだと、

エディは思ってるよ。

それから、君の親父さんとお袋さんのことだけど。」

マギーは、黙って頷いた。

「君の親父さん。彼がここのところ、あまり調子が良さそうじゃなくて、

痩せたって事はわかってるんだ。君のお袋さんと、

俺のことを心配してるんだって思うんだ。

心配の度合いも、そういう順番でね。」

「私の母。」

と、マギーは呟くように言った。

「どうして知ってるの?パパと私以外には、誰も知らないのに。」

「岩城さんは、ひょっとしたら知ってるんじゃないのかな。

二人は親友だからね。でも、はっきりしたことは言えないんだ。

ふた月以上も前に、君のお父さんが俺に話してくれたんだよ。

まだ、俺のことを信頼してくれてた時に。」

「そんな言い方をしないで、ヨウジ。」

「まぁ、色々あったけど、信頼してくれてたと思うんだよ。

誰にも言わないって言ったんで、

君に話したってことは、言わないでくれ。」

「わかったわ。」

「この二ヶ月のあいだに、お父さんは俺に、

腹を割って話してくれなくなっちゃったんだ。

その気持ちはよくわかるんだけどね。

それに、俺が聞ける立場じゃないってことも、わかってる。

お母さんが、3ヶ月前家を出て以来、何の進展もないし、

足取りもわからなけりゃ、連絡もないんだね?」

「ええ、何一つ、わからないの。」

マギーは、声を抑えて答えた。

「電話も、手紙も、何一つないの。

いつもはどこに行っても、電話が来たのに。」

「お父さんは、あらゆる手を打ったんだろ?」

「そうよ。お金はあるのよ?当然、そうしてるって思わない?」

「そうだな。聞くまでもなかったね。

で、何か俺に出来ることはないかい?」

マギーはしばらく指先でテーブルを叩いていた。

その次に香藤に向けた目には、涙が一杯たまっていた。

「父のもう一つの心配を、なくしてあげて。」

「俺が?」

マギーは、黙って頷いた。






その頃、マクガバンは顕然と立ち上がり、

もう一つの心配の解明に当たっていた。

マクガバンと岩城は、ホテルの一室の前に立ち、

そのドアにマクガバンは鍵を差し込んでいた。

岩城は心配そうにあたりを見回すと、マクガバンの肩に手を添えた。

「フロントは、まったくこっちの言い分を信じてなかったよ。」

「かまうもんか。ヨウジのキーは手に入ったんだ。そうだろう?」

「でも、もし手に入らなかったら?」

マクガバンは、キーを廻しながら答えた。

「ドアを蹴破ってたね。前にもやっただろ?」

二人は、部屋に入ると鍵をかけ、部屋中を物色し始めた。

誰でも考えそうなところや、そうでないところも調べていったが、

そう広くはない部屋なので、物を隠せる場所は限られていた。

3分も経たないうちに、二人の男は、

がっくりとさせられる事実を目の前にしていた。

ベッドの上には、封を切っていないスコッチが4本と、

半分残っているのが1本。

顔を見合わせて、岩城が二人の気持ちをもっとも端的に表現した。

「何てことだ!」

マクガバンは頷いた。

それ以外に返す言葉がなかった。

マクガバンが無言でも、

実に不愉快な気分でいることは、岩城には通じた。

香藤に最後のチャンスを与える決心をした直後に、

香藤をクビにしても、

誰からも何も文句を言われることがないような証拠が、

あがってしまったのだ。

「で、ジェームズ、どうするんだい?」

「毒薬を取り上げるんだ。」

「でも、そんなことをしたら気付かれるぞ。それもすぐに。

今、俺達が思ってる香藤って男は、帰ってきたらまず、

手近な瓶に手を伸ばそうとするだろうからね。」

「奴が何をしようが、気付かれようが、かまうもんか。

わかったからってなにが出来るんだ?

フロントへ駆けつけて、誰かが自分の部屋からスコッチを盗んだ、

なんて言う訳か?ヨウジ・カトウだぞ?

そんなこと、できるわけがないだろう?」

「それはそうだけどね。でも酒瓶がなくなったことは、わかるんだ。

香藤はどう思うかな?」

「アル中の若造がどう思おうが、知ったこっちゃない。

それに盗んだのがどうして我々だとわかる?

奴は黙ってるしかないんだよ。」

マクガバンは、そのまま沈黙した。

岩城も、言葉をなくし、その瓶を見つめた。

しばらくの後、マクガバンは肩を落とし天を仰いだ。

「まったく、なんてことをしてくれたんだ。なんてことを・・・。」





「もう、手遅れなんだよ、マギー。」

香藤は、静かに口を開いた。

「もう、運転出来ないんだ。

ヨウジ・カトウはもう落ち目なんだよ。

誰にでも聞いてごらん。」

「そういう意味じゃないわ。あなたのお酒のことよ。」

「俺が?飲んでる?」

香藤は無表情のまま答えた。

「誰がそんなことを言ってるんだい?」

「みんなよ。」

「じゃ、みんな嘘をついてるんだ。」

黙って香藤の顔を見ていたマギーの瞳から、涙が零れた。

マギーは、溜息を漏らすと穏やかに言った。

「わかったわ。何とかしようと思ったのが間違いだったみたいね。

ヨウジ、今夜の市長のレセプションには行ってくれる?」

「いや、行かないよ。」

「どうして?一緒に行ってくれると思ってたのに。」

「一緒に行って、君を巻き添えにするのかい?いやだね。」

「なぜ行かないの?みんな招待されてるのに。」

「俺は他のドライバーとは違うんだよ。追放された男なんだ。

これでも傷付きやすいたちでね。」

「私は話しかけるわよ。それくらいわかってるでしょ?」

「わかってるよ、それは。でも、俺に近付かない方がいいよ。

マギー、俺は毒なんだからね。」

「物凄く好きになれる毒もあるのよ。」

その言葉には返事を返さず、香藤は立ち上がった。

「行こう。君はレセプションに行くのに、着替えないといけないだろ。

ホテルまで送っていくよ。」

二人は、カフェを出た。

二人がゆっくりと通りを歩いていくと、

エディがた建物の影から姿を現した。

その顔には至極満足げな色が浮んでいた。

エディは、二人に近付き過ぎないように注意しながら、

後をつけ始めた。

ホテルまで1ブロックのところまで来ると、

角を曲がりホテルへ走り出した。





エディは、マクガバンの部屋をノックし、入っていった。

マクガバンは、憂鬱な気分に浸りきっている様子で、

入ってきたエディを見ても、冷ややか、

と言ってもいいような目を向けた。

「ほう、エディか。どうしたんだ。

明日の朝にするわけにはいかなかったのか。」

「うん、そうも行かないんだよ、パパ。」

「じゃ、言ってみろ。」

エディは、いかにも言いにくそうに躊躇った。

「ヨウジのことなんだけどね。」

「ヨウジのことでお前が言うことは、うんと割引して聞かないとな。

お前がヨウジのことをどう思ってるかは、

みんなが知ってるんだからね。」

「うん。ここへ来る前にそれも考えたんだけどね。」

エディは、口ごもりながら続けた。

「ヨウジのお酒のことなんだけど。」

「それで?」

マクガバンの口調からはその胸の内を伺うことは、

まったくと言っていいほど出来なかった。

エディは、悲しそうな顔を浮かべるのに苦労していたが、

それは考えていたのよりももっと難しそうだった。

「ほんとなんだよ?飲んでるってことだけど。

さっき、パブにいるのを見たんだよ。」

「ありがとう、エディ。もう行きなさい。」

マクガバンはちょっと間を置いて、尋ねた。

「お前もそのパブにいたのか?」

「僕が?そんなことしてないよ!

外にいたんだ。中が見えたんだよ。」

「スパイしてたってわけか?」

「通りかかったんだよ。」

エディは、傷ついた顔でマクガバンに背を向け、

歩き出して、また振り返った。

「そりゃ、ヨウジのこと、好きじゃなくなったけど、

姉さんは好きなんだ。」

マクガバンが頷いた。

「姉さんが傷つくのを、見ちゃいられないんだよ。

パパに会いに来たのは、そのためなんだ。

姉さんは、ヨウジと一緒にそのパブにいたんだよ。」

「なんだって!」

マクガバンが、椅子から立ち上がって叫んだ。

「本当か、それは?」

「本当だよ。僕の目は悪くないんだからね。」

マクガバンは手を上げてエディの言葉をさえぎり、

打ちひしがれたように溜息を漏らした。

「マギーを呼んできてくれ。理由は言うんじゃないぞ。」







           続く





          2005年11月27日
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