捻じれたサーキット 8 香藤は、ポケットからハンカチを取り出し、 顔を隠そうとしているとドアノブが廻った。 すばやく、足音を立てないように、 クローゼットに飛び込んで扉を閉めると、 廊下からのドアが開いて誰かが入ってきた。 室内を歩き回っている音は聞こえたが、 その音からはその人物が何者かは、まったくわからなかった。 ほんの僅か前に、香藤がやっていたのと同じ事を、 誰かがやっているのかもしれなかった。 暗闇の中で、指先の感覚だけを頼りに、 香藤はハンカチを三角に折ると、 真っ直ぐな長い折り目を目のすぐ下に当てて、 ハンカチの端を後ろで結んだ。 クローゼットの扉が開くと、 香藤の前にはでっぷりと太った中年のメイドが、 枕を抱えて立っていた。 逆に、メイドの前には、今にも襲い掛かってきそうな、 白い覆面をした男が薄暗がりの中に、 ぼうっと浮かび上がったのだ。 メイドが白目をむいた。 まったく音を立てずに、彼女はゆっくりと床へくず折れていった。 香藤はクローゼットから出ると、 大理石の床に倒れこむ前にその身体を支えて、 彼女の持っていた枕に頭を乗せて静かに床に横たえた。 すばやくあいているドアの方へ行くと、 それを閉めてハンカチを外し、 ブリーフケースやその他の手を触れたところをすべて拭った。 最後に受話器を外してテーブルの上に置き、 香藤は部屋を出ると僅かに隙間を残してドアを閉めた。 香藤は廊下をすばやく歩いていき、階段をゆっくりと下りると、 ロビー兼バーへ行って酒を頼んだ。 バーテンは驚きの色を隠そうともしないで、 香藤を見て聞き返した。 「なんて仰いました?」 「ダブルのジントニック、って言ったんだよ。」 「は・・畏まりました、カトウ様。」 出来る限り感情を押し殺して、 バーテンがジン・トニックを作ると、香藤はそれを持って、 両側に大きな鉢植えのある窓際の席へ行った。 興味深げにロビーの方を眺めていると、交換台の様子がおかしく、 若い交換手の苛立たしげな素振りが見えた。 それは次第にはっきりとしてきて、 ライトが点滅しているのだが、 話が通じないということが一目瞭然だった。 ついに、腹を立てて交換手はボーイを手招きすると、 低い声で何か言った。 ボーイは頷くと、落ち着いた足取りでロビーを横切っていった。 戻ってきた時のボーイの足取りは、 落ち着いているどころではなかった。 ボーイは、駆け足でロビーを横切ると、 ただならぬ様子で交換手に何か耳打ちした。 交換手が席を外し、僅か数秒後には、 支配人が姿を現して急ぎ足で、ロビーを横切っって行った。 香藤は辛抱強く待った。 ロビーにいるほとんどが、 ひそかに香藤を観察していることを知っていたが、 気にもしていなかった。 彼らが座っているところからは、 香藤が何を飲んでいるのかはわからなかった。 支配人が、およそ支配人らしからぬ足取りで姿を現し、 フロントへ行くと忙しげに電話をかけ始めた。 いまや、ロビーにいる人は全員が興味津々、 何事かと大騒ぎをしていた。 もっぱら香藤に向けられていた視線がフロントに移ると、 香藤は好機到来とばかりに、グラスの中身を植木鉢に捨てた。 それから、ゆっくりと立ち上がると玄関の回転ドアの方へ、 ぶらぶらとロビーを横切っていった。 バーから玄関の方へ向かうと、 自然に支配人の横を通ることになった。 香藤は立ち止まり、さも心配げに声をかけた。 「何かあったんですか?」 「大変なことがあったんですよ!」 支配人は受話器を耳に当てて、 電話がつながるのを待っているようだったが、 香藤洋二のような有名人が、 わざわざ立ち止まって声をかけてくれたことで、 気をよくしていることも明らかだった。 「強盗なんですよ! うちのメイドが襲われてひどい目にあったんです。」 「それは大変だ!どこで?」 「ジャンセン様のお部屋です。」 「ジャンセンの? 彼は、うちのチーフ・メカニックに過ぎないんですよ? 盗むようなものなんて、持ってないのにな。」 「ほう!まぁ、そうかもしれませんね。 でも、強盗にはそんなこと、わからないんじゃないですか?」 香藤は、気の毒そうに言った。 「彼女は、襲った男の顔を覚えてるんでしょうね。」 「とんでもない。憶えているのは覆面をした大男が、 クローゼットから飛び出して、 遅いかかって来たってことだけなんですよ。」 支配人は送話口に手をあてて、微笑んだ。 「失礼します。警察が出ましたので。」 香藤は支配人に背を向けると、 ほっとして長い溜息を漏らしながら立ち去って行った。 回転ドアを抜けると右手のほうへ向かい、 右に曲がって横の入口からまたホテルへ入り、 誰にも見られずに自分の部屋へ戻った。 ミニカメラからフィルムのカセットを取り出すと、 新しく見えるものと取替え、カメラをしまい、 取り出したカセットを封筒に入れて、 名前とルームナンバーを書き込み、 一応騒ぎも収まったように見えるフロントまで出向いて、 金庫に保管しておくように頼んで部屋へ戻った。 1時間ほどあと、 香藤はネイヴィー・ブルーのタートルネックセーターに着替えると、 黒い革のジャケットを着てベッドに座り、じっと待っていた。 程なくして、腹に響くディーゼル・エンジン音が聞こえ、 香藤は部屋の灯りを消すと、 カーテンを少し開いて窓の外を覗き込んだ。 レセプションに出席した連中を乗せたバスが戻ってきていた。 香藤はカーテンを閉め、灯りをつけると、 マットレスの下からスコッチを取り出し、 それで口をすすぐと、部屋を出た。 香藤が階段を下りていくと、ロビーに戻ってきた連中が入ってきた。 マクガバンは香藤に気付くと、マギーを岩城に託した。 マギーは視線を香藤からそらして、後ろを向いた。 香藤は脇をすり抜けようとしたが、 マクガバンはその前に立ちふさがった。 「君が出席しなかったんで、市長はご機嫌斜めだったぞ。」 「俺が出なくてご機嫌斜めだったのは、彼だけでしょ?」 マクガバンは、苦虫を噛み潰したような顔で、香藤を見返した。 「明日の朝一番に、プラクティス・ラップがあるのを、 忘れてやしないだろうな?」 「走らなきゃならないのは、俺なんですよ? 忘れるなんてことがあると思うんですか?」 香藤はマクガバンの脇を通り過ぎようとしたが、 再び、彼は香藤を遮った。 「どこへ行くんだ?」 「外、ですよ。」 「そんなことは、私が許さな・・・。」 「契約書に入ってること以外は、 とやかく言われる筋合いはないんですよ。」 香藤はそのまま立ち去って行った。 その背を見ながら、岩城はマクガバンに向かって顔を顰めた。 「ちょっと、匂わないか?」 「何か見逃したんだ。」 マクガバンが、溜息を漏らし岩城に頷いた。 「何を見逃したのが、調べてみた方がいいな。」 その言葉に、マギーが二人をかわるがわる見つめた。 「じゃ、彼がトラックにいるあいだ、 もう彼の部屋を調べたってわけね。 そして、彼が背を向けたらまた調べるのね。 呆れた人たちね。まるで・・こそ泥じゃない。」 「マギー・・・。」 岩城は彼女の腕に手を添えた。 マギーは、それを振り払った。 「ほっといて。自分で部屋まで帰れるから。」 岩城はその後姿に、肩を落とした。 「なんて言うか・・・。」 「生死に関わる問題なんだがな。 あの態度はいささか問題があるな。」 「・・・恋って、そういうもんだろ、ジェームズ?」 岩城は溜息をつきながらマクガバンと共に、 立ち去って行くマギーの背を見送った。 香藤は玄関の外の階段で、 ヴィリとザッキオが入ってくるのとすれ違った。 香藤は声をかけなかったばかりでなく、 まるで二人が目に入っていないようだった。 二人の男は、香藤を振り返って立ち止まった。 香藤は背筋を伸ばして歩いていたが、辛うじてわかる程度に、 そして明らかに計画的なものではないということがわかるように、 かすかに片側へよろめいた。 すばやく立ち直ると、また、不自然なほど真っ直ぐに歩いていった。 ヴィリとザッキオは、ちらっと顔を見合わせると頷きあい、 ヴィリはホテルへ入っていき、ザッキオは香藤のあとを追って行った。 暖かかった夜気が冷え込んでくると、霧雨が降り始めた。 それはザッキオにとっては好都合だった。 雨が降り始めると、たちまち通りから人の姿が消えていき、 香藤を見失う恐れがなくなった。 ザッキオは、人通りのなくなった通りを、香藤との間をつめ始めた。 香藤の歩き方は、はっきりとよっていることがわかるような、 覚束ないようなものになっていた。 それを見ているザッキオの顔には、苛立ちと侮蔑が浮んでいた。 香藤がよろめきながら道を左へ曲がった。 一時的にザッキオの視界から逃れると、 香藤の態度から酔っているようなところが消え、 足早に最初の引っ込んだドアの入口に入っていった。 尻のポケットから、 ふつうはレーサーが持ち歩かないようなものを取り出した。 それは、カバーのついたブラックジャック・ナイフで、 手首にかけるストラップがついていた。 香藤はそのストラップを手首かけて待っていた。 待つほどもなく角を曲がり、ザッキオの姿が見えた。 人影がないことにその顔から侮蔑の色が消え、 狼狽の色がそれに取って代わった。 心配そうに足を早めるとザッキオは、 5、6歩で香藤の隠れている、 暗い引っ込んだ入口の前に差し掛かった。 グランプリ・レーサーには、タイミングを掴む感覚と、 正確さと動体視力が必要なのだ。 その三つを、香藤はありあまるほど持ち合わせていた。 瞬間的に、ザッキオは意識を失っていた。 倒れたザッキオには目もくれないで、 香藤はそのうつ伏せになった身体をまたぐと、 きびきびとした足取りで立ち去っていった。 今来た道を500メートルほど戻り、 左に曲がると、輸送車駐車場にでた。 意識を取り戻したとき、 ザッキオには香藤がどちらの方へ向かったのか、 見当もつかないはずだった。 香藤は一番近くに止まっている輸送車の方へ、 真っ直ぐに向かっていった。 真っ暗といってもいいほど暗かった上に、雨も降っていたのに、 そこに高さ2メートルほどの、 金文字で書かれた名前は簡単に読み取れた。 「マクガバン」 香藤は鍵を開け、中へ入ると灯りをつけた。 香藤は内側から鍵をかけ、 外から開けられないように差し込んだままの鍵を半分回しておき、 外から見られないようにベニヤ板で窓を塞いでから、 やっと、工具箱へ向かい、必要な道具を手に取った。 何もそのときが最初という訳ではなかったが、 マクガバンと岩城は香藤の部屋へ不法侵入し、 浮かない顔を浮かべていた。 岩城は、水洗用のタンクの蓋を持ち、 マクガバンは水の滴るモルト・ウィスキーの瓶を持っていた。 二人とも、言葉もなく立ち尽くしていたが、 やがて岩城が口を開いた。 「香藤は、なかなか頭が回るようだな。 マシーンのシートの下にも1ケースくらい隠してあるんじゃないのか。」 「勘弁してくれ、キョウスケ。」 「その瓶は、元のところへ戻しておいたほうがいいと思うな。」 「なんでそんなことをしなきゃいけないんだ?」 「そうしておけば、彼がどれくらい飲むのか、 わかるかもしれないだろう?」 「そうだな。確かにそうだ。」 マクガバンは瓶に目を向けたが、 その目には苦しげな色が浮んでいた。 「当代きっての才能に恵まれたレーサーであり、 おそらく、グランプリの歴史始まって以来、 もっとも才能に恵まれたレーサーって言える男なのに。 こんなことになっちゃったんだからな。 どうして、神はヨウジ・カトウみたいな男まで、 叩きのめしてしまうんだ、キョウスケ? ヨウジがあまりにも神の近くを歩き始めてるからなんだ。」 「その瓶を元のところへ仕舞ったらどうだい、ジェームズ?」 ドアの数にしてわずか二つ先にも、 浮かない顔をした男が二人いた。 そのうちの一人は、絶えず首筋をさすって顔を顰めていた。 その男、ザッキオは、かなりひどい痛みに悩まされているようだった。 ヴィリは同情と怒りの入り混じった色を浮かべ、 ザッキオを見守っていた。 「カトウにやられたってことは、間違いないのか?」 「間違いないね。ちゃんと財布が残ってるんだからな。」 「奴としては、迂闊だったわけだ。 キーを失くしたといって、マスター・キーを借りてこよう。」 ザッキオは、首筋をさする手を止めてヴィリを見つめた。 「何のために?」 「さぁ、今にわかるさ。ここで待ってろ。」 ヴィリは、キー・リングを指先に引っ掛けて廻しながら、 2分足らずで戻ってくると、ザッキオとともに廊下に出た。 二人は、誰にも見られずに香藤の部屋へ入りこんだ。 「確かに、お前の言うとおりだな。 カトウは迂闊なところがあるんだ。」 部屋の中を調べ始めてすぐ、 ヴィリが笑いながらカメラをザッキオに見せた。 カメラの中から、フィルムを取り出すとそれを見ながら考え込んでいた。 「これを貰っていくか?」 ザッキオは痛みに顔を顰めたまま、首を振った。 「いやだめだ。 そんなことをしたら、ここに入り込んだことがわかっちまうだろ。」 「じゃ、打つべき手は一つだな。」 ヴィリはフィルムカセットのカバーをはずすと、 フィルムを引っ張り出して明るいスタンドの光にさらし、 苦労してフィルムを巻き戻すと、カメラにそれを戻した。 「こんなことは何の証拠にもならないが、マルセイユへ連絡しておくか。」 ヴィリは黙って頷き、二人は香藤の部屋を出て行った。 続く 2005年12月13日 |
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