These are the days of our lives

        −チャンピオンの休日 15−








「あ、キョウスケだよ、ヨウジ。」

フィリップにそう声を掛けられて、香藤は笑顔で振り返った。

「岩・・・。」

声を掛けようとして、香藤は岩城の様子がおかしいことに気付いた。

「あれ、どうしたの?」

岩城は香藤に近づくと、黙ったまま彼を見つめた。

一拍おいて、す、と岩城の腕が動いた。

「うぐっ・・・!」

どす、と鈍い音がして、香藤の腹に、訓練で鍛えられた岩城の拳がめり込んだ。

その事態に、皆が息を飲んだ。

物音ひとつしなくなった室内に、腹を抱えて蹲る香藤の声だけがした。

「・・・な・・・なに、岩城さ・・・いったい、どう・・・。」

腹を押さえ、顔をしかめて岩城を見上げた香藤は、

そこにこわばった顔を見つけて、口をつぐんだ。

シーンと静まり返る中、岩城の低い、押し殺したような声が聞こえた。

「・・・お前、俺に嘘をついてたな。」

「はっ・・・?」

岩城はちらりとリカルドに視線を向けると、くるりと背中を向けた。

そのまま、大股で店を後にする岩城を、全員が呆然として見送った。




「大丈夫ですか、シニョール?」

リカルドが香藤に走りよった。

「・・・俺のせいだよ、ヨウジ。」

「え・・・。」

リカルドは香藤を助け起こしながら、小さな声で囁いた。

「俺のこと、睨んだ。さっきの、聞かれたのかもしれない。」

周囲に聞こえないように、早口でそう囁いて、

リカルドは香藤の腕を引っ張り上げた。

少し目を細めるようにリカルドを見返して、香藤は頷いた。

「ありがとう、大丈夫だよ、リカルド。」

「どうしたんだ、いったい?」

フィリップが目を見開いて、香藤に近寄った。

「どうも、怒らせたみたいなんだ。ちょっと、追いかけてくる。」

「ああ、わかった。」




香藤は店を出ると、車を駐めた場所へ急いだ。

そこには、すでにレンジローバーの影も形もなかった。

慌ててレストランに戻ると、

香藤はタクシーを呼んでくれるように、フィリップに頼んだ。

いらいらと待つ香藤に、フィリップが肩をすくめた。

「あれは、よほど怒ってたぞ、ヨウジ。」

「うん、俺もそう思う。」

香藤がそう言って、腹を摩った

「いったい何をやらかしたんだ?」

「わからないんだ、それが。」

好奇の目を向ける周囲に、香藤は苦笑いを浮かべた。

「天下のチャンピオンも、奥方には頭が上がらないか。」

フィリップがそう言って笑った。

「仕方ないよ、惚れてるんだもん。」

臆面もなくそう言う香藤に、リカルドが微笑んだ。

到着したタクシーに飛び乗って、香藤は自宅へ向かった。






「じゃ、あとで。」

岩城は携帯を切って、ディナージャケットのポケットに入れると、

指を喉元に差し込んで、ネクタイを緩めた。

ハンドルを握りながらタイを外すと、それもポケットに突っ込み、

シャツのボタンを一つ外して溜息をついた。

車を止め、通りを歩く岩城を女や男達が振り返った。

当の岩城は、眉間に皺を寄せたまま、

むっつりとして待ち合わせた店に向かった。

ジャケットの裾を翻して、どすどすと歩き去る彼を通行人が唖然として見送った。




「なぁに、その格好は?」

店に入ると、大きな声が聞こえた。

岩城を見て、ざわりと店内がどよめいた。

カウンターに陣取り、岩城が連絡を取ったジャーナリスト仲間、

ジュリアン・ビーチが、彼を指しながら呆れたように首を振った。

「ああ、今日、パーティだったんだ。」

「あ、フィリップ・グリーンのね?もう終わったの?」

ジュリアンは、ゲイであることを公言していた。

親しい友人の前では、言葉遣いも素のままだった。

「いや、途中で抜けてきた。」

そう言いながら、岩城はストールを跨いで座った。

「また、なんで?ヨウジは?」

「・・・レストランに置いてきた。」

「は?」

岩城のしかめっ面に、ジュリアンは首を傾げた。




「殴ったぁ?!チャンピオンを?公衆の面前で?」

思わず上げた自分の声に、ジュリアンが慌てて声を潜めた。

「なんでそんなこと?」

「あいつ、俺に嘘をついてた。」

「あいつって・・・。」

呆れたようにジュリアンは岩城を見返した。

「それはなに、喧嘩の原因って、付き合ってたときは優しかったのに、

一緒になったら冷たくなった、とかいうんじゃないでしょうね?」

「ああ、いや・・・それは逆だ。」

「へ?」

岩城がいう言葉に、ジュリアンの目と口がO型になったまま、固まった。

夜中にお腹が空いたら食事を作ってくれる。

お茶も入れてくれる。

ベッドメイキングも、香藤がする。

風呂へ入るとき、朝起きたとき、服を用意してくれる。

風呂にも一緒に入る。

「・・・洗ってくれる、ですって・・・?」

「うん。」

「身体中?」

「うん。」

「まさか、中も、とか言うんじゃないでしょうね?」

言われて、赤い顔で視線をさまよわせる岩城に、

ジュリアンは思わず声を上げた。

「なんてこと!そんなことやらせてるなんて!」

「ち、違う!やらせてるわけじゃない!」

「じゃ、何だって言うのよ?」

「そ・・・それは、香・・・洋二がしてくれるって言うから・・・。」

「呆れた・・・。」

ジュリアンは岩城の顔を見ながら、唸った。

「この、贅沢もの。」

「贅沢って・・・なんでだ?」

「ばっ・・・。」

喚きかけて、ジュリアンが黙り込んだ。

頭を抱えるようにして、彼は岩城を見ると、大きな嘆息を漏らした。

「ヨウジ・カトウは、チャンピオンなのよ?

それも、去年で6年連続。

そういうスーパースターだってこと、忘れてない?」

「・・・忘れちゃいない。わかってるよ、それは。」

「じゃ、甘えてるわけだ。」

「・・・。」

岩城がグラスを握ったまま黙り込んだ。

「それって、妻の自信って、奴?」

「つ、妻って・・・。」

「だって、そうでしょうが?」

「う・・・そう、だけど。」

ジュリアンがグラスを、ぐい、と煽ると、顎を上げて岩城を見つめた。

「で、嘘ってなんなのよ?」

「うん。」

岩城はむっつりとして、初夜の床で香藤が男を抱いたことはない、

と言ったのだとジュリアンに話した。

彼は、ぽかんとして岩城を見返すと、呆れて首を振った。

「あのねぇ、キョウスケ。あなた、以前はヘテロだったんだから、わかるでしょ?」

「なにを?」

岩城が眉を寄せて見返すのを、ジュリアンは溜息をついて眺めた。

「じゃ、聞くけど。あなたは、女に一回も嘘を言ったことがないわけ?」

「・・・あ・・・いや、・・・。」

「この女と付き合いたい、って思ったとき、

ちょっとかっこつけたりとか、しなかったとでも?」

「あー・・・それは、その・・・。」






チッピング・カムデンの自宅に戻ってきた香藤は、庭先に視線を向けた。

そこに、レンジローバーがないことに、慌てて家の中に飛び込んだ。

携帯電話を取り出し、

香藤はロンドン市内にいる知り合いのところへ、片っ端から電話を掛けた。

「そっか・・・行ってないんだ。うん、大丈夫だよ、ジェームズ。ありがと。」

携帯を切って、香藤は壁に背をつけ、ずるずるとその場に座り込んだ。

「どこ行っちゃったんだろう・・・岩城さん。」

アクセルが近寄ってきて、様子のおかしい香藤の頬を、ぺろりと舐めた。

「・・・よしよし。」

柔らかなアクセルの毛を撫でながら、香藤は肩を下げて嘆息した。

ふと見ると、ブレイクが香藤の膝の上にちょこんと、座っていた。

香藤を見上げて、「みゃう」と鳴いた。

「・・・岩城さん、どっか行っちゃったんだよ、ブレイク。」

2匹を撫でながら、香藤は顔をしかめた。

岩城に殴られた腹を摩り、こつん、と後頭部を壁に当てた。

「・・・いってぇ・・・。」






「ほんとに、馬鹿みたいに惚れられてんのね、キョウスケは。」

「そう、かな?」

「どこの世界に、中を洗ってくれる旦那がいるっての!」

「う・・・ん。」

ジュリアンは、頬杖をつきながら、岩城を横目で見た。

「ベッドでもマグロ、してるんじゃないでしょうね?」

「・・・。」

岩城は黙ったままグラスを煽った。

「ふーん、そうなんだ。」

「な、なんだよ?」

ジュリアンは岩城を睨むようにして口を開いた。

「まったく、いい加減にしなさいよ?

旦那に全部、面倒見てもらってるだけじゃなくて、

ベッドの中でもな〜んにもしなくて、それでも大事にされてて、

挙句に他愛無い嘘に腹立てて、殴って。

もの凄いわがままじゃない?しかも、相手はあのヨウジ・カトウよ?」

「わがまま、って・・・そんなにわがままなのか、俺は?」

口を開きかけて、ジュリアンは、岩城に顔を近づけると、眇めるように見つめた。

「してあげたことも、当然、ないわけね?」

「なにを?」

「なにを、って、口でよ?」

岩城は絶句してジュリアンを見返した。

「ない、わけか・・・っていうか、あんた達、セックスしてんの?」

「なっ・・・してるよ!」

「へぇー。じゃ、ヨウジに愛されるだけ愛されて、後はケツ向けて寝ちゃうわけ?」

「寝ちゃう、っていうか・・・疲れて知らない間に寝てる方が多いな、俺は。」

ぶほっ、とジュリアンが飲みかけた酒を噴出した。

「・・・それで、後始末どうしてんのよ・・・?」

言いかけて、ジュリアンは岩城に片手を伸ばした。

「ちょっと!まさか、それ、ヨウジが・・・?」

「うん・・・。」

ドン、とジュリアンがグラスをカウンターに叩きつけるように置いた。

「ふざけんじゃないわよ、キョウスケ。もう一回言わせて貰うわ。」

「なに?」

むっとした顔で、ジュリアンは岩城を睨んだ。

「この、贅沢もの!」

ちょっと肩をすくめて、岩城は俯いた。

「一から十まで、旦那にやらせて文句言うなんて・・・なに、それ?

私が旦那にそんなこと言ったら、とっくに捨てられてるわよ!」

「いや、やってくれって、俺が言ったわけじゃなくて・・・。」

「ヨウジがやるって言ったわけ?」

「自分で出来なくて・・・俺は何も知らないから。

洋二に全部教えてもらってたし、なんか・・・その・・・。」

口ごもる岩城に、ジュリアンはふん、と鼻を鳴らした。

「で、ヨウジがやってあげるって言ってくれたわけだ。

それに甘えてるんだ、いまだに?」

無言のままの岩城に、ジュリアンは肩をすくめた。

「ちゃんと、愛される努力をしなくちゃ、いつか飽きられる。

終わりが来る。そうじゃない?」

岩城は、はっとして彼を見返した。

「それは男も女も、同じでしょ?」

「そう、だな。」

「はたから見れば、キョウスケは愛されてることに、

胡坐かいてるように見えるわよ。」

眉を寄せて見返す岩城に、ジュリアンは溜息をついた。

「愛されちゃってるんだわねぇ・・・うらやましいけど、やな感じだわ。」

「ごめん・・・。」

「別にー、謝らなくてもいいけどー。」

お代りちょうだい、とバーテンにグラスを掲げて、

ジュリアンは自分のグラスと岩城のグラスを脇にどけた。

「してあげたら?」

「・・・え?」

ぽかんとして見返す岩城に、ジュリアンはくすり、と笑った。

「嬉しいんじゃない、ヨウジ。」

「したこと、ないんだけど・・・。」

困り果てた岩城の顔を、ジュリアンは笑いながら見返した。

「喜ばせたくない?」

「それは・・・。」

岩城は少し黙ってカウンターに視線を落としていた。

「・・・俺なんかのどこがいいのか、未だに不思議なんだけどね。」

ポツリ、と零した岩城の肩を、ジュリアンはそっと撫でた。

「自信、持ってるのかと思ってたけど。」

「・・・今の話は、そう聞こえるな。」

「そうよ。大切に、大事に、この世で一番愛されてる。」

「うん・・・謝らないとな。」

ジュリアンは、肩を落として溜息をつく岩城に、にんまりと笑った。

「記事にしないであげるから、奢りなさい。」

「え?」

「向こう一年くらいずっと、(たか)られても文句言えないわよ?」

岩城は、ぷ、と噴出すと笑顔のまま頷いた。






夜中に戻ってきた岩城は、車から降りて玄関を開けた。

真っ暗な家に、特に何も思わず、リビングのドアを開けた。

その壁際に蹲る影を見つけた岩城は、口を開きかけて、また閉ざした。

黙ったまま、手を伸ばして、照明のスイッチを入れた。

「え・・・?」

香藤が明るくなった室内に、驚いて顔を上げた。

「・・・あ・・・岩城さん・・・。」

岩城は、香藤の足元から近寄ってきたアクセルの頭を一撫でして、

「ハウス。」と言うと、もう一度香藤を振り返った。

ディナージャケットを着たままで、

泣いた痕のあるその香藤の顔をじっと見つめて、岩城はくるり、と背を向けた。

「・・・寝るぞ。」

「あ、待ってよ!」

香藤が慌てて立ち上がり、その後を追った。

膝から放り出されたブレイクが、「ぎゃん」と一声鳴いた。






     続く



     弓




   2006年12月2日
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